アトリエ・マイルストンブログ

2020年6月22日月曜日

何と75年目の「沖縄慰霊の日」

月曜日・終日の梅雨寒の雨(午後より強風吹き荒れる)


昨日は「日食」の見られる日でしたが、あいにくの梅雨空で神奈川県では観察できませんでした。
残念。

前回の際には前日までは楽しみにしていたのにもかかわらず、日食当日はすっかりド忘れ、
何だか辺りが不思議な仄暗い雰囲気に包まれ、「何だか変だよね」なんて妻ととぼけた感想、
恥ずかしながら、夕刻のニュースでやっと自分たちの「日食」当日ド忘れを知った次第です。
(-_-;)

今度、我が国でその「日食」が見られるのは10年後(!)とのこと。
ただでさえご老体となった我が身(幸いです)、しかも今年から押し寄せた「新型コロナ感染禍」、
一体全体 10年後にこの身が生き延びているのやら、はっきり言って自信は全くのゼロ(!)です。
(-_-;)

* * *

「ミュージック・ギャラリー(その419)」


明日6月23日は「沖縄慰霊の日」です。



今回は毎年恒例の、何と75年目の「沖縄慰霊の日」特集です。
で、前回の当コーナー同様の典型的ステレオタイプで、こんな曲を選ばせていただきました。

THE BOOM (ザ・ブーム)(作詞・作曲:宮沢和史)、「島唄」(1993年) 

「真っ暗闇の豪の中(天然壕や防空壕)から、犠牲となった人々の魂を大空へと解放させてあげたかった」とは宮沢氏の弁。
そんな高尚な気持ちと想像力とがこの歌を国境を越えて愛されるメロディーとなって、世界の各地にてカバーされました。

上動画はオリジナルではないかもしれませんが、詞の内容の映像化を主眼に筆者が選ばせていただきました。
と言うのには理由があって、先の大戦末期の「沖縄戦(戦史史上最大)」では約20万人余の命が失われました。
その内訳は沖縄住民が約9万人余、本土出身の日本軍将兵が約9万人余、米英軍が約2万人余となっています。
歌詞の「海を渡れ」は、本土からの死者たちの魂の帰郷を歌ったものではないかとの筆者の独断的推測から、
敢えて選ばせていただきました。

昨今の「沖縄慰霊の日」の県代表者の弔辞にはこの視点が欠落している節があり、自分たちだけが永遠の被害者のようで、
日本国民の代表である政府代表者(総理大臣)に対する言葉も辛辣で、およそ「守礼の邦」の末裔としては悲しい限りです。
今年は「コロナ感染禍」の影響もあり総理の出席はありませんが、せめて最低の礼儀は尽して貰いたいと毎年願っています。

*

「式典翌日の筆者追記」

本日24日、
75回目の「沖縄慰霊の日」の現県知事による「平和宣言」の動画がYouTubeに投稿されているのを見ました。
前県知事と同様に、相変わらず全戦没者や残された遺族に対する思いやりのある慰労の志や言葉には程遠く、
挨拶前文のような若干4分にも満たない単なる歴史的事実のみを朗読し、後は政治的信条を述べていました。
現知事の初宣言、前例には程遠いマイルドさだとの地元マスコミの声もありますが、今までが異状過ぎです。
( ;∀;)

*

この歌の詩もまた本土出身の作曲家で、祖国復帰前のオキナワにて戦時の声なき声を聞き、作詞したものです。
詞の完結全編は合計で11連にもなり、省略せずに最初から最後まで歌うとやはり11分にもなると言う長編詞です。
下はその通常版(ショート・バージョン)です。

夏川りみ、「さとうきび畑」(1964年、作詞作曲:寺島尚彦)

ただただ圧巻の歌唱です。
ピアノ伴奏は、沖縄出身の歌手らを常にバックアップしてくれていた故・羽田健太郎氏です。
間奏・感動の尺八は藤原道三氏、後半の合唱者は同じく県出身テノール歌手・新垣勉氏です。
正に平成の音楽史に残っても良いと断言出来得る名熱唱・名編曲・名演奏です。

* * *

筆者、当ブログにて「沖縄慰霊の日」の特集として、「沖縄戦」の大特集を過去に組んだことがあります。
ご興味のある方、もしよろしければ下記青字クリックの上、ご来訪ください。貴重な映像資料も満載です。

沖縄慰霊の日・特集


( 2017年6月26日付け「T講師コーナー」内の投稿)

記したいこと山ほどありて、その分を上の特集にて多少は具現化することが出来ました。

「鎮魂の合掌」
( ;∀;)

* * * * *

「筆者後記」

コロナ禍の緊急2種の給付金、遅ればせながら先週にやっと当方へも届きました。
これまで色々と緊急性に欠けるとの記述をしてきましたが、「それはそれ」これはこれで有り難い限りです。


「自粛緩和」が新局面を迎え、「県境」を越えて移動することが可能となりました。
苦境下にある観光業や興業関係者の皆様にとっては朗報ですが、外国からの訪問者はまだまだ先のことです。
これまで大混雑だった京都などの人気の観光地、この機会を捉えてゆっくりと観光に訪れてみたいものです。

* * *

「市内の小学校、明日より久々の全生徒登校へ」


各方面での「自粛緩和」は小学校の登校にも現れ、明日から久々の全生徒での登校が始まります。
「集団感染」のリスクが消えた訳ではありませんが、以前の日常に少しでも戻ることは幸いです。
私どもの学童クラブでは既に早朝からお休みの学童らが来所、下校の学童らと日々合流済みです。
当初からのリスクしわ寄せは民間の施設では今も変わらず、そんな状況下での努力しかありません。
「楽しさ」に加え「厳しさ」をも加えて、学童らに「コロナ禍での新生活」を指導するのが役目です。
「 頑張ります。」
(*^^)v

By T講師

2020年6月17日水曜日

両面睨みで聴く梅雨時の音楽たち

月曜日・久々の晴れ(但し、蒸し暑し)

*


「ミュージック・ギャラリー(418)」

「両面睨みで聴く梅雨時ミュージック」


梅雨入りして数日、湿度の高い「雨の日」蒸し暑い「晴れの日」と目まぐるしく変わりました。
その度に筆者の脳内自動ジュークボックスには、様々な音楽が鳴り響き、結構対比の濃い傾向が見られました。
そこで、どんな天候の日でも音楽を楽しめるようにと、今回の懐かしき「晴れ・雨の音楽」を並べてみました。

と言う訳でまずは「晴れの日」音楽です。
ご存じの大ヒット・ナンバー、米国西海岸の青空を思わせる爽やかさが肝です。
当の本人は灰色の空で有名な英国出身で、他に「落ち葉のコンチェルト」等もヒットしました。
作曲の方でも、カーペンターズの「青春の輝き」なども綴った才能豊かなアーチストです。
(適正な音域再生のため、外部スピーカーやヘッドフォーン利用にて、ご視聴ください。)
では どうぞ。

アルバート・ハモンド、「カリフォルニアの青い空」(1972年)

 Albert Hammond , "It Never Rains In Southern California" w/Lyrics


「後日追加版」


同曲の日本語訳詞版を、再度お借りしてきました。
上動画では様々なビジュアルを、追加版では日本語訳詞の妙味をお楽しみ下さい。
持ち味のサウンド・イメージの爽やかさとは随分と異なる意外過ぎる詞の世界です。

「カルフォルニアの青い空」/ Mr,Moonlightさんによる意訳版(度々お世話になっております。)
但し、上動画のジェット旅客機は747(ボーイング747・ジャンボ・ジェット)ではありません。


*

この年の5月15日、故郷オキナワは祖国復帰を果たし、晴れて「沖縄県」となりました。
!(^^)!
但し、筆者はその直前に高校を青息吐息卒業、パスポートを携えて海路にて上京。
そのパスポートには「日本国への入国を証する」とのスタンプが押印されました。
「あれ?俺 今までどこで暮らしてたの?」妙チクリンで摩訶不思議な心境でした。
(-_-;)
その後はスカイメイト制度利用にて、当時は747ジャンボ機のお世話になりました。
故郷との往復に数多く利用させていただき、大感謝です。
(*^^)v

「後日追記:恒例の脱線昔話」

筆者若かりしその頃、スカイメイトと言えば予約は不可なれど、半額料金で搭乗できるとあって大いに利用したものです。
日航・全日空の両者間で空席の有無の状況連絡の融通も利き、沖縄出の貧乏な青少年にとっては正に有り難い制度でした。
空席の有無は搭乗の直前までは不明で、無線を持ったゲート前の地上要員から急ぎ案内され良く走った思い出があります。
それでも一旦席に着けば一般乗客と同じ扱いで、国内では遠距離な飛行時間とあって、量感あるランチなども堪能しました。
但し、満席で乗せてもらった場合、一般の座席ではなくスッチー(当時の略呼称)さん専用シートの場合も度々ありました。
通常ならば最後部座席にスッチーさんと共に並んで座りましたが、ジャンボの場合は客席とは対面のスッチーさん座席もあり、
その際は、スッチーさんらと共に一般乗客の横並び10席シートに面と向かうことになり、結構恥ずかしさも感じたものです。
相対する乗客の方も「何なの、この若もんは?スッチー専用席に座って」みたいな怪訝な顔で筆者を凝視していたものです。
でも全てのスッチーさんたち、この「異質・半額小僧」を見下すようなことは一切なく、いつも丁重にもてなしてくれました。
水平飛行に移るや否や、シートベルトをササと外し、キビキビと立ち振る舞う彼女たちを見て、正にプロの鑑と知りました。
時に一般乗客とは違う特別扱い(私的会話やささやかな記念品)をしていただいたこともあり、今となっては楽しい思い出です。
彼女たちからしてみれば「貧乏な弟」のような存在だったのかも知れず、筆者らからすれば頼りがいあるネーネーたちでした。
( 我が国の航空会社の彼女らの献身的サービス精神の質の高さは、外国のそれと比べると頭が下がるほどの業務内容です。)
( 但し、搭乗に際しては身障者優先の例外を除いては可視的な階級社会でもあり、その待遇での差は歴然としていますが。)
当時のスッチーさんらには、今も感謝です。
(*^^)v

* * *

「爽やかさ」繋がりで、筆者の脳内自動ジュークボックスが次の曲を選び出してきました。
曲名タイトルの季節は気にせず、その湿度のない乾いた爽やかさをご堪能下さい。
(筆者注:画面内の線上「YouTubeでご覧ください」をクリックしてご視聴ください。)

イングランド・ダン&ジョン・フォード、「邦題:秋風の恋」(1976年)

 England Dan & John Ford Coley, " I'd Really Love To See You Tonight "


* * *

やはり「爽やかな晴天」繋がりで、この曲もまた連鎖して筆者の脳内に出現しました。

ブレッド、「メイク・イット・ウィズ・ユー」

Bread, " Make It With You ",( with lyrics )


* * *

最後に登場は「爽やか」よりは熱目の気もしますが、おそらく男性コンビと言うことで引き釣り出されたものでしょう。
アメリカン・カントリー・ロックならではの男らしさが凛とした雰囲気を醸し出して、結局「爽やかさ」に繋がりました。

ブリューワー&シップレー、「邦題:人生の道」(1971年)

Brewer and Shipley , " One Toke Over The Line," With Lyric


懐かしき70年代音楽、その乾いた雰囲気がこの季節に付き物の鬱陶しさを多少は吹き飛ばしてくれるかもしれません。

* * * * * *

次は「雨の日」のBGMと参りましょう。
さて青空を想起させる「爽やかさ」の次には、どうしても避けられないこの季節ならではの湿り気ある情緒をどうぞ。
湿度の高い日々が続くと何だかんだと陰鬱になりがちですが、ここは開き直って「雨」情緒を大いに楽しみましょう。

まずは彼女。米国出身ながら主にロンドンを拠点に活動。最近来日を果たし、人気上昇中です。
リリカル&アンニュイな時空、どうぞ。

ステイシー・ケント、「ジェントル・レイン」

♫ Stacey Kent - Gentle Rain


*

「ジェントル・レイン」のインストもまた良いもんです。

エディ―・ヒギンズ・トリオ(インストルメンタル・ジャズ)

 Eddie Higgins Trio ," Gentle Rain "


*

次はカナダ出身の女性ボーカルでどうぞ。

スージー・アリオリ、「ヒアーズ・ザット・レイニー・デイ」

Susie Arioli - Here's That Rainy Day


*

最後はクール・ジャズ(ウェスト・コースト・ジャズ)の大御所のバージョンで締めくくりたいと思います。
曲とは無関係な不可思議映像満載な動画、いぶし銀の味わいテナー・サックスの音色と共にお楽しみ下さい。
バックの空間を包むゲイリー・バートンの雨垂れのようなビブラフォーンも脳内を溶かしてくれるようです。

スタン・ゲッツ、「ヒアーズ・ザット・レイニー・デイ」

Stan Getz - Here's That Rainy Day


雨垂れの音を聴きながらまどろみ、深い眠りに落ちるのも一興です。
zzz (-o-) 


欲張り筆者の梅雨時の全天候型チャンプルー・メニュー、お楽しみいただけたのなら幸いです。

By T講師


2020年6月12日金曜日

アトリエもまた めでたく再始動

金曜日・未明の雨 、蒸し暑い曇りの日

アトリエも先週末の土曜日より、めでたく再始動。
やる気満々のキッズらで、久々に活気が戻りました。
但し今までと違うのは、筆者も含め全員がマスク姿。

とは言え、相変わらずそれらの描画・工作の様子や作品画像アップ出来ずにいます。
本来のアトリエ・ブログは、新たにリニューアルした後に再開したいと考えています。
そのめでたき暁、いつになるのか不明ですが、マスク姿はどうなっているのでしょうか?
_(._.)_

* * *

「ミュージック・ギャラリー(その417):梅雨入り、梅雨明け」


蒸し暑い日々が続き、本日からいよいよ「梅雨入り宣言(関東甲信地方)」となりました。
時をほとんど同じくして、故郷の沖縄では早くも「梅雨明け宣言」が出されたとのことです。
そんな中で筆者の脳裏に湧き上って来たのは、熱きスピリットに溢れる米国発のバンドでした。
筆者が小学校高学年の頃(2歳年上の兄の影響)に聴いていたフォークソング名曲のカバーです。
メンバー全員がマルチ・プレーヤーならではの、ルーツ・ミュージック的アレンジが秀逸です。

ザ・フーターズ、「500マイル」

The Hooters - 500 Miles (Video Version)


このフーターズ・バージョン、3番の歌詞を原曲から変えており、列車を100両の戦車と改ざんしています。
その意味が2分過ぎに登場する映像で、大陸の近隣非民主大国では「歴史の闇」に葬られた歴史的事実です。
そのシーンの際には" I'll be free ! I'll be free!"と繰り返され、後半には原曲をヒットさせたPPMの3人の姿も。
社会的関心の高い彼ら、原曲をより反抑圧の強い表現へと彼らなりの独特の演奏編曲と脚色を加えて妙味です。
親日家の彼ら、「スキヤキ(上を向いて歩こう)」もレパートリーの一つに取り入れていて、嬉しい限りです。
(*^^)v

* * *

トレイン(列車)繋がりでもう一つのアメリカン・バンドの曲が自動的に引き吊り出されてきました。 

ソウル・アサイラム、「ランナウェイ・トレイン」
Soul Asylum - Runaway Train (Official Video)

アメリカでの大きな社会問題の一つで、家出など未成年失踪者・行方不明者が1年間で実に160万人以上にも及ぶとの事!
ちなみに我が国では全年齢合計で1年間で約8万人(!)程だそうで、アメリカ国内ではいかに多いのがが判ろうと言うもの。
米国では本人の意思による家出のみならず、離婚家庭の元家族からの拉致も多いそうで、未解決事案も多いとのことです。
我が国のような小さな島国では理解不可な、他民族国家・移民社会・人種住み分け社会等の弊害があるのかもしれません。

以上、80年代のアメリカン・バンドらしい、ストレートで骨太な懐かしい2曲をお届けしました。

* * * * *

「筆者後記:寸感」


今週は記せねばならない無視できぬ事柄が多く、しかもそのほとんどが陰鬱なものばかりでした。

まずはこちら、
北朝鮮の工作機関による拉致被害者の横田めぐみさんのご両親はやさしく強く、ご立派なご夫婦ですが、
残念ながら父であり夫君の横田滋さんが、悲願のめぐみさんとの再会を果たすことなく逝去されました。
また加えてめぐみさんの弟二人もまたご両親同様に立派に成長され、意思を継いで、活動されています。
横田めぐみさんが一刻も早く再び故郷日本の地を踏みしめられるよう、無力ながら祈るしかありません。
横田 滋さん、享年87歳。謹んで冥福をお祈りいたします。

「ミュージック・ギャラリー(特別・後編)」


上の「500マイル」、筆者は確か小学5年生の頃、米国のフォーク・グループ「ピーター・ポール&マリー」盤で初めて聴きました。
その古い民謡を世界的に知らしめたのが彼らP.P.Mの3人組で、メンバーの一人が、拉致被害者の横田めぐみさんの歌を作りました。

ポール・ストゥーキー、「めぐみさんのための歌」インタビュー(2007年放送)

Paul Stookey on TV - "Song for MEGUMI"


*

当コーナーでも2度ほど(?)登場の名作曲家にして名ギタリスト・名シンガーもまた横田めぐみさんの歌を作っていました。

「あの「伝説の歌手」が横田めぐみさんに曲を捧げる」ピーター・フランプトン


*

上動画で優しさ溢れる彼、現在では知らない人も多いかと思いますが、70年代当時の人気には凄まじいものがありました。
2枚組のライブ・アルバムは驚異的なセールスで、全米で10週間に渡り1位を記録。プラチナ・ディスクを獲得しました。
そんな才能豊かな彼の最盛期のほんの一片鱗を・・・。

ピーター・フランプトン、「ショー・ミー・ザ・ウェイ」(スタジオ・ライブ)

Peter Frampton - Show Me The Way ( Studio Live at Midnight Special 1975).


この動画でも彼の特徴の一つである「トーキング・ボックス」を、ギターと共にユニゾン演奏しています。
同時期、やはり英国の名ギタリストのジェフ・ベックが「迷信」で、トーキング・ボックスを使用してました。
そんな才能豊かな彼も何と早70歳。近年は難病とも戦いながらも昨年ラスト・ツアーを行ったとのことです。
今では好々爺の風貌 著しい永遠のシンガー&ギター青年の彼、その幸福なる晩年を祈る今日この頃です。

*

「迷走する大国アメリカ」

世界の多くの国々が増々混迷を深める新型コロナ感染禍の危機的状況ですが、国々や人々は、
まるで旧約聖書に登場する「バベルの塔」にて登場する当事者たちのように意思の疎通を欠き、
言葉と思考は永遠に合致するところを見い出し得ないような危機的状況となってきました。
アメリカでは、皮肉なことに「不寛容」による強権的言動がブーメランとなって、大統領自らに突き刺さり、
国民の思考・感情は二極に分断され、両者の対立の溝は日々深まり、混迷の度合いを増々大きくしています。
「差別」が良い訳ありませんが、その反対運動に乗じて悪漢どもが略奪をし、大統領選にも利用されています。
「デカップリング(切り離し)」が現代米国社会の各層にて拡大し、加えてコロナ感染リスクが増大しています。
この混迷の行きつく先に、良き解決図があるとは到底思えません。

*

「一国二制度」と「国家安全法」

大陸の非民主大国が国際的公約を破って、我が国が戦前に施行していたかつての「治安維持法」的な手段を選びました。
その大陸では外国からの情報は完全に遮断されており、強力で独裁的な国家統制による情報で国民が洗脳されています。
「民主主義」国家に於ける「言論・信教の自由」「三権分立」等は封殺され、歴史すら歪曲・捏造する前近代的権力です。
香港の自由はもはや風前の灯と化し、明日は台湾がその延長線上に置かれ、前準備段階として故郷もまた危機的状況です。
島々への領海侵犯はもとより、「チャイ○マネー」が故郷の多くの分野で侵食しており、「明日は我が身」が懸念されます。
前県政より顕著になったこの傾向、現知事など国を通り越して「一体一路」に参加協力したい等と言ってはばかりません。

一つだけ良いニュースがあるとすれば、それはかの大陸の首領の国賓来日が無期限に白紙状態に戻ったと言うことです。
いっそのこと正式な中止になることを心より願ってやみませんが、親中派の多いマスコミ・政財界にあっては困難かも。
大陸国家国内に於いては、少数民族の大量抑圧をはじめ、過去に於いては近隣諸国に攻め入り無理やり併合の暴挙も。
世界中で傍若無人な恫喝外交を連発している無法松親分を、我が国の国賓として迎え入れることがあってはなりません。
「21世紀の新アヘン戦争」は既に始まっていて、多くの国々がその麻薬を打たれ、人としての尊厳を既に抜かれています。
我が国もまたこのままの「見ざる聞かざる言わざる」を決め込む訳にはいかず、それなりの覚悟・決意が求められています。

*

結局、全てに共通しているのは「基本的人権」の問題


その「基本的人権」、では翻って我が国ではどうでしょうか?

「言論・表現の自由」が保障されていることを良いことに、加えてネット上では「匿名性」を良いことに、
安易な誹謗中傷を書きこみ、一個人の人格や尊厳をいとも容易く傷つけ踏みにじり、命までも奪っています。
「愛と憎しみ」が人間性の根本原理だとしても、想像力を欠いた人々が存在していることは悲しいことです。
性被害に対して実名を以って声を上げた女性に対しても、同様の無神経さによる情報発信が流布されています。
お金や地位や職業や、安易なP.CやSNSの世界や手段があったとしても、不幸を振り蒔く種は衰えるべきです。
祖父母や、両親や、兄弟や、我が子や、恋人や、友人や、知人や、隣人らと共に楽しく暮らすよう努めましょう。
誰の人生も一瞬の一回きり。
(#^^#)

以上、個人的寸感、ご容赦。
_(._.)_

By T講師

* * *

「追伸:筆者後記(その2)」

先週、国策・厚労省企画の布製マスクが2枚、我が家にもやっと届きました。
巷ではマスクも入手可能な状況下、遅れてやって来た「あだ花」となりました。
寄付の道もあるそうですが、今のところ愚策記念としてとって置くつもりです。

*

やはり国策の「特別定額給付金」と、「持続化給付金」の2種、
未だ何の反応も無く、当方にはビタ一文 支給されてはいません。
これでは緊急的措置としての「効力無し」と断定せざるを得ません。
幸いにも私共は事業が維持されてはいますが、そうではない危機的状況下の人々も多く、全くの立腹ものです。
しかも、その予算を国の機関でピンハネ、後の業務を民間の企業へ丸投げ。その企業も下請けに丸投げとのこと。
我が国の官僚の優秀と言われる人々の頭は、国家予算の「我田引水クスネ」にのみ、さも腐心しているようです。
しかも加えて、その企業とは長時間残業で社員を自殺へと追いやったことで有名な超ブラック企業の広告代理店!
「コロナ禍」で市井の人々の生命失われ、「コロナ禍で官僚 焼け太り愚策」で民人の職と食が日々また失われ・・・。

これでは我々庶民(納税者)が、一向に救われません。
( ;∀;)

By T講師

2020年6月1日月曜日

いつもと違う「雨の日の月曜日」

月曜日・雨
本日より(何と)6月!
「新型コロナ感染禍」騒ぎで、いつもより早い半年(折返し!)です。

「学校、再開!学童クラブも再始動!」

雨の日の月曜日ですが、今日のこの日を心待ちしていた学童らも多く、送迎車を見つけては満面の笑みで全力疾走。
「マイルストンへ行ける日を待ってたよ!」との嬉しい反応。3ヶ月近くも見ないうちに皆身長が伸びていました。
ですが、学校以上に「3密」になりがちな学童クラブ、その責任は重く、今後は厳しい指導をしなければなりません。
今までのように楽しんでもらいつつも、但し目配り・気配りもこれまで以上に必要となり、その緊張感もあります。

でも諸外国のような危惧された「感染爆発」もなく、この日を迎えられたことは、めでたいことと言わざるを得ません。
第2波に警戒しつつも、学童たちの笑顔に再会できたことを今日は単純に喜びましょう。
(*^-^*)

* * *

「ミュージック・ギャラリー(その416)」


今日は一切何も考えず、ただただ典型的ステレオタイプでアップしました。

カーペンターズ、「雨の日と月曜日は」(日本語歌詞付き)

Rainy Days And Mondays - Carpenters (1971)


20世紀 米国音楽の黄金コンビ、ポール・ウィリアムスとロジャー・ニコルズによる名曲、但しこのカバーが本家のようです。
カレン・カーペンターの馥郁たる低音の魅力、もう全人類の宝です。

*

そんなカレンの低音を聴いていると、脳内では更に別の曲が引きずり出されてきました。

カーペンターズ、「マスカレード」
The Carpenters , " this Masquerade " (1973)

オリジナルは筆者の敬愛する故レオン・ラッセルですが、原曲とはまた違った魅力が満載で、よくカバーしてくれました。
他にも彼らの洗練された多数の曲が筆者の脳内でチェイン・リアクションを起こしていますが、ここら辺で止めときます。
(^^)

* * *

このインスト・カバーも筆者のお気に入り。ドサクサ紛れにYouTubeよりお借りしてきました。
想像力を痛く刺激する筆者好みの動画で、今夜のアルコール・タイムにて再登場の予定です。

パット・メセニー、「雨の日と月曜日は」(インストルメンタル・カバー)

Pat Metheny , " Rainy days and Mondays " 


最後部の窓辺のニャンコが可愛いですね。

* * *

「アトリエ・オープンのお知らせ」


「非常事態宣言」解除に伴い、学童クラブに続き、アトリエもまたオープンします。
再開日は、今週末の6月6日(土曜日)からです。
(但し、第2・第4日曜日は、キッズ・クラスのお休み日です。)

初日に早くも予約が入りましたが(ありがとうございます)、皆様の来訪を心よりお待ちしております。
(#^^#)

アトリエ・マイルストン主宰: T講師こと 当真 英樹

2020年5月25日月曜日

去りゆく5月の爽やかな風たち

月曜日・快晴
相変わらず充実したストレス・フリーな日々を満喫しています。
各種の木工作業や庭仕事での肉体労働にて、瞬間寝落ちの日々。
おかげでブログ編集の時間が見いだせず、定番の投稿時差です。
ご容赦。

5都道府県の「非常事態宣言」解除さる


国民の自主性に任せた7週間に渡る自粛期間が今月末を待たずに解除されました。
我が神奈川県が少々足を引っ張っている感もありますが、取りあえず一安心です。
短期的完全収束が望めない以上、一刻も早い経済的復活が最優先事項の急務です。

「命」も「暮らし」も共に守るため、今後も「3密」に気を付けつつ頑張りましょう。
(*^^)v

* * *

「祝・沖縄祖国復帰特集(その2)」

「沖縄祖国復帰特集」その2をアップするにあたって、筆者の中では色々な企てが同時並行して有りましたが、
それぞれのメインとなるはずの動画の大方にブロックが施されていて、特集にするには妥協と制約が多過ぎて、
結局のところ今回もまた当初の企てを貫くことが出来ずに、無念にも大幅な変更を余儀なくされてしまいました。
そこで、これまでのアプローチを一切捨てて、新たな(その2)として投稿することにしました。疲れた(´;ω;`)。

「ミュージック・ギャラリー(その416)」

「去りゆく5月の爽やかな風たち」


気がつけばもう3~40年も前の事になります。
前回特集で取り上げた故郷沖縄出身の歌手の中に、今回取り上げた三人の彼女たちも新たに加えることにしました。

まずはトップ・バッターは「麗美(れいみ又はレイミー)」さんです。
彼女の存在を見い出したのは、人気絶頂中の松任谷由実であり、名編曲者の松任谷正隆氏のご夫婦に間違いありません。
松任谷由実(以下、敬称略)はその初期に於いて、麗美を強力にプッシュし、自ら制作の作品を数多く提供していました。
ある動画のコメント欄にもありましたが、松任谷由実は彼女の中に自らの作品のリアル・ボーカロイド的要素を見い出し、
自作の完成度を高め研ぎ澄ませるために麗美に歌ってもらい、自らの歌唱には無かった世界を付加し具現化したのです。
筆者の能書き、長くなりました。

やがて来たる「梅雨」の前、爽やかな薫風を感じさせてくれる歌声たちをどうぞ。
松任谷由実 作詞作曲、松任谷正隆 編曲プロデュ―スによる麗美の歌唱、どうぞ。

麗美(レイミー)、「青春のリグレット」(1984年)

 in Second Life Suond Remixdown by Reimy Kohime


そんな彼女も三枚のアルバムを松任谷夫妻と制作しましたが、その後、自らの創作意欲にて新たな道を進み始めました。

*

麗美、「Two Of Us」作詞作曲:堀川麗美 (1990年頃)


曲名は「私の中の二人」みたいな意味で、自らの二面性をコミカルに歌っていて爽やかです。


*

麗美 reimy 、「傘はおいてませんか」とインタビュー、(1990年末頃)

作詞作曲:堀川麗美

動画末尾の本人登場のインタビュー映像も今となっては貴重です。
小振りのギター、良い音していますね。英語の自作詞・曲ももちろん良い感じで、もっと聞きたいと感じました。

麗美さんにはお姉さんがいて、初代クラリオン・ガールに抜擢されただけはある妖艶美女の堀川まゆみさんがその人です。
お姉さんも歌手ですが、その外見からモデルとして活躍。また映画の主役にも選ばれましたが直前降板して干されました。
残念。
その後、MAYUMIと改称。自作曲や他の歌手らへの楽曲提供やプロデュース等を行っているとの事です。

一方、妹の麗美はアメリカでも全曲英語詞によるアルバムも発売。1988年にはビルボード・ダンス部門で14位を記録。
93年頃からは岩井俊二監督の映画やドラマのサウンドトラック制作提供、CM等にも活動範囲を広げて活躍中との事です。
歌唱のみならず、多彩な活動を行っている彼女ですが、その独特な歌声を聴きたいと言うファンのコメントも多数です。

*


「ホントにホントの脱線昔話」

前回の当ブログにて「京都での修学旅行の思い出」をかいつまんで記しましたが、その際の彼H君の名前が堀川君です。
堀川の姓は、故郷の沖縄ではその大方の人々が宮古島の出身者で、美人の島としても地元では大いに知られています。
ちなみに余談も余談ですが、そのH君の妹二人もその従姉妹たちもまた目元睫毛パッチリなソース顔の美人揃いでした。
余談を更に続けますが、そのH君の奥さんは前回登場の南沙織さんのインターナショナル・スクール時代の友人でした。
筆者詳しくないのですが、おそらくその英語力からして、麗美さんもまた彼女らと同じ学校の出身者だと思われます。
また麗美も南沙織も悪友の堀川君の奥さんも共に、フィリピンとの混血で「ハーフ(半分)」ではなく「ダブル」です。

そのH君、上京中に筆者のアパートに彼女と共に一時滞在。先に島に戻った彼女恋しさにラブレターをしたためて送るも、
「良いアイデアがある!」と便箋を抜き取り香水をふりかけ投函。ポストから戻った彼、抜き取った便箋を机上で発見。
島で手紙を受け取った彼女、中身の入っていない封筒から微かに立ち上る香水の香りに、しばし唖然としたとの事です。

携帯電話のないそんな不便な時代、故郷沖縄に電話するにも莫大な数のコインが必要となり、その両替にも苦労しました。
どうしても長電話になる際には紙幣使用可能な希少な電話を求めて、わざわざ地下鉄に乗って新宿駅まで行ったものです。
内容的は親不孝を絵に描いたような若気の至りの「お金の無心」が多く、帰路の灰色の冬空に寒さが一層 増したものです。
また時に、別の情けない友人に泣く泣く頼まれて、遠距離交際中の彼女との間のケンカの仲裁を取り持ったことも・・・。
今では遠い昔日の東京暮らしでの思い出です。くだらない「ホントにホントの脱線昔話」お付き合いされた方、感謝です。
麗美さん、ごめんなさい。
折角のコーナー、汚してしまいました。
_(._.)_

* * *

以前にも当コーナーで紹介したこともありますが、その伸びやかな歌唱は一過性の流行歌で終わるには余りにも惜しい世界です。
ヒットしなかったことがとても不思議で悔やまれるとは、彼女の楽曲動画のコメントの声、今でもやはり多数に上っています。

梅雨前の薫風吹き渡るこの爽やかな季節にはぴったりな曲です。

亜波根 綾乃(あはね あやの)-「大きな風」(デビュー曲、1996年)


名前が「あはね」となっていますが、地元沖縄では通常「あはごん」と音読みの姓名です。
歌唱のみならず作詞作曲・編曲も含め完成度の高い、現在でも遜色のないスケール世界です。

*

2曲目もまた5月には相応しい爽やかさで、これまた素晴らしい大作です。
彼女の故郷沖縄を多分に意識した詞が、筆者の胸に迫ります。

亜波根綾乃-ひこうき雲の空の下(1997)


94年にコロムビア新人オーディションでグランプリを受賞。96年にはTV東京の「ASAYAN」では異例の12社から指名を受け、デビュー。
そんな非凡・逸材の彼女ですが世の中うまくはいかぬもの。大手芸能プロ所属歌手とは違う立ち位置にてマスメディア露出度に恵まれず、
従って大ヒットにも繋がらずに、やがてその歌手生命の命である活動も次第に鈍り、萎んでいったようです。これもまた商業主義の宿命。
自らの才能・努力だけでは報われないことも多い、この世の冷徹な条理です。
いつまでも聴かれ続けられることを・・・。

* * *

さて最後に登場は、やはり故郷沖縄が生んだこれまた世俗的名声やヒットには恵まれてはいない天才歌手の1人です。
彼女の才能を見い出したプロデューサーが特定の芸能事務所所属に反対。その影響もあってTV出演等に恵まれず。
しかし、95年のNHK新人歌謡コンテストで優勝を果たし、喜納昌吉作の「花」で第1回アジア音楽祭でも優勝。
その天空をどこまでも自由に駆け巡るような伸びやかな歌声は天性のもので、他者の追随を許さない孤高の存在です。

 石嶺聡子、「私がいる」


*

彼女のデビュー・出世作となった歌のCDバージョンとは違ったアレンジを2曲続けます。

石嶺聡子「花」

Harp ver. of Hana by Satoko Ishimine



石嶺聡子、「花」


「花」、一時期は歌うのは嫌だと思っていた彼女ですが、今は吹っ切れたとのことです。
数々の名誉あるコンテストで優勝実勢のある彼女、その豊かな才能は衆目の事実です。
これから先は筆者の「上から目線」で失礼ですが、彼女は多分に生真面目な性格だと思います。
聴衆の期待に応えようと日々精進し本番も大切に歌い上げていますが、芸術には遊びの部分も。
端正な部分を残しつつも原曲を尊敬しつつも、壊して遊んで自分色に染めても良いと思います。
原曲の音程も心も無視してハッチャケた彼女の姿・歌唱を体験したいのは筆者だけでしょうか。
失礼・無礼、ご容赦。
<(_ _)>

*

オリジナル・ヒットには恵まれない彼女ですが、その歌声は古今東西のカバー曲でその魅力が発揮されています。
全英語歌詞のアルバムの中から2曲を取り上げました。秀逸なシンプル・アレンジと共にお楽しみ下さい。

石嶺聡子、「ハードタイムズ・カムアゲイン・ノー・モア」

" Hard Times Come Again No More "


曲名から行くと上のタイトルがトリに良いかなとも考えましたが、筆者の最も気に入っている曲を最後にしました。

石嶺聡子、「ゼア・イズ・ナッシン・モア・トゥー・セイ」

There Is Nothing More To Say


ザ・ミレニアムのカバーですが、この歌いっぷりの表現力と完成度が素晴らしく、今回特集のトリとしました。
彼女の上の2曲が含まれるCDアルバム「洋灯(らんぷ)」"Nostalgia for tomorrow"、アマゾンで買いました。
お勧めです。

現在はシンガーソングライターとして独自の世界を地道に歌い続ける彼女、マイペースで頑張ってもらいたいです。

(*^-^*)

* * *

以上、筆者の故郷の沖縄出身の女性歌手3名の歌う楽曲の一部を紹介しました。
現在、それぞれがマスメディアでの露出がほとんどないような状況だとは思いますが、
これからも末永く、人々の耳にその爽やかで伸びやかな歌声を届けてくれることを心より願っています。
「チバリヨー!!!」

By T講師

2020年5月20日水曜日

祝・沖縄祖国復帰特集(その1)

水曜日・曇り 時々 霧雨
平年よりも低気温となりました。

一昨日(月曜日)より、自粛閉所中の学童クラブの開放要件の一部を緩和。
少数ながら新1年生らを中心に、笑顔と笑い声がマイルストンに戻って来ました。
そのエネルギーに満ち満ちた笑顔に筆者らも元気を貰え、やっぱり良いものです。
(#^^#)

*

「ミュージック・ギャラリー(その415)」
「祝・沖縄祖国復帰 特集(その1)」


1回目の今回、故郷オキナワが祖国へ復帰して「沖縄県」となる1972年前後の、オキナワ出身者の曲を集めてみました。
下にご紹介の曲以外にも紹介したい曲ありますが、YouTube上に存在しなかったり、ブロックありで断念した曲多数です。
祖国復帰前、沖縄出身の全国的有名人はごく少数で、プロ野球では広島カープで大活躍した安仁屋宗八投手くらいでした。
なので全国的に認知される歌手などの有名人が出ることは、その当時の故郷の人々にとっては誇りであり、ヒカリでした。

では早速、そんな状況下(米軍施政下)で育った歌手たちの懐かしの曲たちに行ってみましょう。

21世紀(令和)の時代、遠き昭和のこの大ヒット曲を知らない方々も多いかと思います。
戦後16年、復帰前のオキナワから初めて本土デビューを果たした女性歌手の出世作です。

仲宗根美紀、「川は流れる」1961年

「親子ラジオ」と言う米国ポップス100%の有線放送で育った筆者にとって、ラジオ放送から流れてくる邦楽が衝撃でした。
それまで慣れ親しんだ米国ポップスのきらびやかな世界とはうって変わったその暗さは、子供の筆者をも打ちのめしました。
筆者、言葉も知らぬ米国ポップスをごく自然に器楽曲として聴いていたのですが、そこに言葉の意味をも侵入してきました。
「別れ」「死」「悲しみ」と言った幼き筆者には無縁な言葉と世界が切々と歌われ、マイナーと言う和音構成も知りました。
この曲、冒頭の「病葉(わくらば)を~」の言葉からしてもう筆者には謎の世界で、当時でもその意味を知る大人も少なく、
両親にその旨・その意味を尋ねてもちゃんとした答えが貰えずに、何となくはぐらかされたような記憶があります (-_-;)。

そんな中、特に暗い曲の典型がこの曲で、イントロのマンドリンからしてもう暗い絶望世界の入り口に立たされたものです。
なので、当時はその曲がラジオから流れ出した途端に、即刻に他局へと急ぎチューニング・ダイヤルをひねったものです。

でも時が経ち歳月が流れ大人に成長した筆者の帰郷時、とある食堂のラジオからこの曲が流れ出て再びの衝撃を受けました。
タイムスリップしたようなひなびた食堂(でも美味です)によくある古い真空管ラジオのままで、選局不可なのが幸いしました。
幼き頃はただその暗さを遠ざけていた筆者ですが、この歌手の声質とその驚くべき唯一無二の表現法に突然開眼したのです。
単なるマイナーと言う曲調だけでは表現できない歌手の憂いと湿り気を帯びた声質、その独特な音程の取り方に驚きました。
言葉のラ行に乗せる巻き舌と、語尾ロングトーン時の緩やかなグライド歌唱法(上昇下降グリッサンド)が魅力で独特です。
そして詞の内容もYouTubeの動画で初めてしっかりと知り、暗さだけではない3番詞の「明日は明るく~」に救われました。
けだし昭和の世が生んだ傑作名曲。
他にも西田佐知子の「アカシアの雨に打たれて」や、「カスバの女」など多数ありますが高齢者の筆者、今や大好きです。
(#^^#)

*

しばらくの時を経て、ベトナム戦争激化中の騒然とした基地の島から、爽やかな歌声が登場しました。
艶やかな歌声と、長い黒髪と浅黒い肌のキラキラした笑顔が全国のアイドル・ファンを魅了しました。
( 筆者注:動画画面内の「この動画はYouTubeで御覧ください」をクリックしてご視聴下さい。)

17才(南沙織)1971年(生唄)


余談ですが、生放送のステージ後方上手に、筆者の大好きなシモンズの二人の姿も垣間見られます。

*

他にもヒット名曲多数あり投稿を試みましたが、著作権者によりその多くがブロックされていて断念しました。
次の曲は当時のCMで流れていたもので、大好きだった「シモンズ」判と共に心に残る柔らかな歌唱が秀逸です。

明治チェルシーの唄 南沙織


他にも「潮騒のメロディー」「色づく街」「哀愁のページ」等々の名曲多数ですが、ブロックにて転載不可。残念。
ご興味のある方はYouTubeにてトライしてみてください。
いわゆる「アイドル歌手」のジャンルながらも、その爽やかさは一過性で終わるには勿体ない世界だと思います。

「脱線昔話(その1)」

実は筆者、彼女とはほんの数回の面識があります。
復帰前・デビュー前の那覇で、市内で活躍中の人気先輩バンドのコンサートで、友人らから紹介されました。
当のご本人は今や覚えていないと思いますが、市内の国場ビルで催されたロック・コンサート会場等ででした。
「今度、デビューするんだよ」との友人の言にロック漬け状態の筆者、「歌謡曲なんて」みたいな反応でした。
その後、彼女の全国デビュー直後(大ヒット連発中)には、筆者の上京後にも都内で2度ばかり遭遇しました。
当時、兄の彼女の住む東中野のマンションの一室で、兄の彼女の親友として紹介をされましたが、お辞儀のみ。
「確かどこかで会ったような?」みたいな怪訝そうな表情の彼女、「有名芸能人」としての距離を感じる筆者、
無表情・無反応のままにて兄ら申し出の「共に!」食事外出の誘いをすげなくクールに断ったものです。
今となっては「素直が一番!」でした。

そんな南沙織さん、シンシアとの愛唱でも知られていましたが(吉田拓郎の歌にもなった)、身内間では、
「シンティア(家族名ポール)」と発音し、呼ばれていました。
その当時の筆者の彼女に対する第一印象は「顔、チッチャ!」で、今当時の映像を再現すると黒くもあり。
故郷の地元では当たり前に感じていた健康的浅黒さではありましたが・・・但し誤解なく、褒め言葉です。
<(_ _)>
人気持続中の現役中にもかかわらず、カメラマンの篠山紀信氏と電撃結婚、早期引退が惜しまれました。
今は息子さんの愛されキャラの「篠山輝信」君が、素直なキャラクターで八面六臂の活躍をしています。
「チバリヨー!」
!(^^)!

* * *

さてセンセーショナルな小さな大物兄弟たちが故郷を旅立ち、華々しく本土デビューを果たしました。
彼らもまた本土デビュー前に地元のTV局の公開放送の現場で、その非凡振りを目の当たりにしました。
「筆者注」
曲終了後(1'20"~)に、謎のバンド演奏が抱き合わせ販売のように付いています。無視して下さい(-_-;)。

フィンガー・ファイブ、「恋のダイアル6700」(アテレコとダンス)
Finger 5, " Love call 6700 " (1974)

日本国中の歌謡ポップス・ファンをアッと言わせた晃君の比類なきハイノート・ボイス、驚異的でした。
さすがに日本のジャクソン・ファイブと形容・称賛されたことだけはある才能豊かな5人組兄妹でした。

*

作曲が共に筆者の敬愛する元ブルコメの故・井上忠夫氏だけあって、そのポップス感覚は群を抜いていました。

フィンガー・ファイブ、「学園天国」(生唄とダンス)

一番ちっちゃい末娘の妙子ちゃん、2'10"辺りで転んでいましたね。
ドンマイ
!(^^)!

*

この人のデビュー曲にして大ヒットとなった実力派歌手の出世作です。

桑江知子、「私のハートはストップ・モーション」1979年

残念ながら俗に言う「一発屋」となりましたが、今も地道に現役歌手として佳曲を歌い続けています。
但し、残念にもアダルトな歌手の活躍する場が地上波TV等のマスメディアには無く、露出度は極小です。
「チバリヨー!」

* * *

さてお次は大人ムードの歌謡曲で・・・。
沖縄出身の歌手ではありますが、米国発のベンチャーズと共に古都「京都」を歌い、大ヒットを飛ばしました。


渚ゆう子 - 京都の恋(アテレコ合成)


大ヒットにより、その年のレコード大賞の候補にもなったそうですが、作曲者が外国人との理由で玄関払いの憂き目に・・・。

*

当時のアイドル歌手時代にアダルトなムードで、大人達を納得させて艶やかさが秀逸です。

渚ゆう子 - 京都慕情


オリジナルやカバーを含め京都を歌った曲多数で、その憂いを帯びた艶やかな歌声は唯一無比です。

* * * * *

「脱線昔話(その2):京都・修学旅行の一夜」

今を去ること半世紀近くも前のこと。高2の筆者、修学旅行に参加。およそ半月にも及ぶ本土各地(北限は日光)の観光を行いました。
( その当時、本土への渡航にはパスポートが必要で、左翼学生運動家の来沖や地元学生らとの交流等の阻止で厳しい制限が設けられ、
その米軍方針のあおりで、修学旅行以外での若者の渡航は滅多に許可されず、唯一修学旅行だけが本土旅行の機会でもありました。)

京都での夕刻、地元の若者二人と仲良くなり、空手の話題が出ました。筆者友人が見栄を張り「僕らは空手の達人」と大嘘をつきました。
面食らう沈黙の筆者に「彼は剛柔流の三段」。そして「僕は鉄漢流(だったかの出任せ)の四段」とほざき、彼らを一気に惹きつけました。
「そりゃ凄いわ!なら見せてもらえん?」彼らの喰いつきに友人H君何を思ったか困惑する筆者に演舞を披露するようのたまわりました。
「お前、出来るさあ。ちょっと見せてあげて。」筆者に小声で耳打ちするH君。ためらう筆者に二人から大きな催促の拍手が上りました。
筆者、中3の2学期に一人部員の友人に頼まれて臨時部員をした経験があり、その時に覚えた演舞をH君に披露したことがありました。
( 脱線中の脱線話になりますが、その結果危ぶまれていたアメリカン・スクールとの交流会にめでたく参加することが出来ました。)
『この野郎~、覚えていろよ~』筆者は内心では立腹つつ、クールさと懇願の両方の表情のH君の顔を立たせるべく意を決しました。
『エエイ、どうにでもなれ!』『旅の恥はかき捨て』とばかりに、筆者は初対面の彼らに久々の空手演舞を披露してしまいました。
彼らから湧き上る大きな拍手。それもそうです。筆者のはそれなりに本格的な演舞で、続いて自己表現力旺盛な彼が進み出ました。
「前座の次は、真打ちの私めが披露いたしましょう。」等とほざき加え、得意のジャッキー・チェン流のカンフー風を始めました。
彼らからまたもや大きな拍手。「空手でも流派で随分と違うもんやな~!」と大喜び。ここまでで終わっとけば良かったのですが。

純情素朴な地元の男子二人、筆者らとは同年齢で、高校中退後の今は手描き友禅染の職人を志して見習い中だとのことでした。
これから中学時代からの友人二人と合流予定で、共に筆者らを市内観光へ案内すると誘われ、筆者らも同意し要望を伝えました。
合流したのは筆者らと同級の高2男女、女の子は当時流行りの真ん中分け長髪の色白切れ長目にミニスカートのいで立ちでした。
職人見習いの二人、先程披露の空手が凄かったと物凄くアピール。ミニの彼女も「是が非でも見たいわあ~。」と熱い視線です。
すっかり気を良くしたH君。その要望にあっさり二つ返事。再びの空手演技(1人はまるで嘘八百流)を披露する羽目となりました。
『もう勘弁して。』筆者はH君の嘘に付き合い、2度も「旅の恥はかき捨て」を行ってしまった訳ですが、これがまた受けました。

その当時、京都は大阪と共に関西ロックの発祥の地で、筆者らは地元のバンド演奏が聴けるライブハウスをと所望した次第です。
合流した地元の若者四名、筆者らのホラ・エセ空手の演技披露後は目を爛々と輝かせ、筆者らの要望を快く承諾してくれました。
「いつもは怖い思いしてるんよ。でも今夜は頼りがいのある空手の達人二人が用心棒してくれはるし。嬉しいわあ~!」との言。
傍らのH君「大船に乗ったつもりで任せなさい」と胸を張り、一方小声で「チンピラに絡まれたら逃げよう」と筆者に呟きました。
H君の大見栄・大嘘のせいでとんでもなく大変なことになってしまいました。大いに楽しむはずの京都の夜がこれでは台無しです。
「いいか、ちゃんと聞いとけよ。俺が前なら、お前は後ろ。俺が左なら、お前は右。全速力だからな。」と小悪党そのものです。
「お前、ひどい!」筆者らの小声の困惑逃走相談話しを尻目に、地元の四名は目的地に向かってもう無邪気に闊歩し始めました。
そこは「四条」だったかの賑やかな繁華街だそうで、怖いお兄さんたちも大手・大股で闊歩している危険な場所だとのことです。
人通りの往来多い繁華街へと足を踏み入れた筆者ら一行六名、地元の四名の案内を先頭に立てて内心恐々で前方を注意深く観察。
「さすが、さっきまでとは目つきが違う。まるで猛禽類みたいやし。」と誤解タップリなお褒めの言葉まで頂戴いただきました。
幸いにも!、
その晩は幸いにも強面の怖いお兄さんらに出くわす事もなく、無事にライブハウスへと到着。京都のバンドを堪能できました。
ライブがはねた後の二軒目の喫茶店で住所等交換、初体験の京都弁女子の柔らかな物言いに話しの中身をつい忘れたものです。

長かった修学旅行中、今想い返すと最も楽しかった京都での思い出。
正月には全員からの年賀状が届き、しかも翌年にはお盆休み中に職人見習いの二人がパスポート取得して来沖してくれました。
その際に、「二人とも空手の達人」だと言うのは実は真っ赤な嘘だったと告白して、新たな笑い話に付け加えられたものです。

あれからおよそ半世紀、上京後の度重なる転居で住所も失くし連絡不可な今、彼らのことを時々思い出す今日この頃です。
話し口調がスローで穏やかなT君ら四名(特に女子)の声が、今や遠くなった過去の記憶室の中から時折 聞こえてきます。
(#^^#)

長文となってしまいました。お読みいただいた方、ありがとうございます。

* * * * *

「基地の島からの台風、オキナワン・ロックの台頭、その栄光と衰退」


ベトナム戦争が泥沼化しはじめた60年代中後半から、基地の島オキナワでその誕生の産声を上げました。
戦地へと旅立つ、または一時休暇の荒ぶる兵士たちを相手に四つに組み、その実力でねじ伏せていました。
そんなきな臭い時代、そのサウンドを聞きつけた本土の音楽界から注目を浴び、全国デビューをしました。
本土生まれのロック界とは一線を画したスピード感溢れるヘビー級サウンドが、熱狂的に歓迎されました。

紫、「ドウ―・ホワット・ユー・ウォント」

Murasaki (紫) - Do What You Want


ヒッピー文化を背景としたカウンター・カルチャー的歌詞も、多くの米兵らからも支持されました。
間奏後半の4ビートが堪らなくお洒落で、当時(今でも)の本土製ロック・バンドでは到達不可能な領域です。
彼らの本土ライブでは、国内にこれほどの外国人がいるのかと驚くくらいの若者男女が押しかけていました。
また彼らの噂は遠く欧州にも飛び火、当時では異例なほどのレコード・セールスを記録した現象もあります。
ただ筆者個人的に、彼らの地元での生演奏に数多く接している耳では、レコードの音は大人しく不満でした。
東京の音作りは総じて歌謡曲風なミキシング・バランスとなり、彼らのパワーや音質再現が不足してました。
「残念」

*

本土で大成功を納めた「紫」に続けとばかりに、破天荒なワイルド振りでならした彼らもメジャー・デビューを果たしました。
圧倒的でスリリングなギター・サウンドと常識を超えたパフォーマンスが、明日をも知れぬ米兵らに熱狂的な支持を得ました。

コンディション・グリーン、「ハート・テイカ―」

Condition Green -" Heart Taker (on BC Street) "


*

彼らのデビュー・アルバムからもう1曲。

コンディション・グリーン、「トリック」
Condition Green, " Trick "

その当時、国連で主催された「ジャパン・イヤー」の日本代表に選出されたのが「紫」と彼らの2グループでした。
数多くの国内ミュージシャンの中からその2グループだけが太鼓判を押され、C.Gの面々が渡米し演奏を披露しました。
国連のみならず、ディズニーランドにも招聘され、昨今の京都橘マーチングバンド同様に大絶賛を浴びたとのことです。
またL.Aの超有名ライブハウスでの演奏も評判を呼び、当時のキッスのメンバーから来日公演の前座にも抜擢されました。
実際にはやはり色々な圧や思惑もあって、国内招聘者側からその共演を拒否されてしまうと言う不幸にも見舞われました。
「残念」

*

「脱線昔話(その3)」

在沖縄米軍、とりわけ海兵隊の面々からの人気を誇る彼らでしたが、不幸にも本土でのコンサート構成が不発。
その後は地元沖縄での熱狂的・カリスマ的な米兵人気とは裏腹に、本土での評判は思わしくなくなりました。
復帰前のオキナワで初ライブを敢行した当時のロック界のドンが大ブーイングされ、前座の彼らに激しく嫉妬。
現場目撃の友人談では、演奏開始直後に米兵全員から「帰れ!」、C.Gには「戻れ!」コールが噴出したとの事。
本土デビュー後にも彼が有象無象の圧をかけたことは地元では有名な話し。それらもあって早々と帰沖しました。
当時の音楽雑誌にも彼らを意図的に誤解・貶めたりする記事が多くなり、彼らの人気は急激に萎んでいきました。
何10年か後、やはりデビューした沖縄のダンス・グループが、やはりまた同じような圧で業界から干されました。
その時はもまた芸能界・芸能事務所のドンの様々な妨害工作によりグループは最盛期を直撃され、一時期・低迷。
そのグループ低迷中に抜けたメンバーの一人が、筆者の高校の同級生女子の息子さんでした。残念な結果です。
その後、昨今めでたく人気が回復した彼ら、その類いまれな歌唱力とダンス・パフォーマンス等で活躍中です。
「チバリヨー!」
!(^^)!

* * * * *

「東京残留組のダイナミック3姉妹」


さて復帰前に米軍に鍛え上げられ育ててもらったのは、何もロック・バンドの面々だけではありません。
彼女たちもまた基地の島・基地の街ゆえの環境下で育ち、こんなにも凄い感性と技術を身に付けました。
その早口・巻き舌、ただ単に歌が上手いだけでは表現できないアメリカン・ポップスならではのリズム感が肝です。

boogie woogie bugle boy / EVE


「イヴ」こと新里三姉妹もまた復帰直後に「アップルズ」と言う名前でデビュー。
当時流行のディスコ・サウンドで売り出し、その後はスタジオ・ミュージシャンとして何千本もの録音に参加しました。

リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア EVE


一言、正に圧巻!
彼女らの隙間バックで満面な笑みを浮かべピアノを弾くのは、彼女らの良き理解者の故・羽田健太郎氏です。
今世紀、TVの音楽番組も衰退し、彼女らのような本格的な本物のミュージシャンらが活躍する場所もなく、
ジャリ―ズ軍団や団体アイドルグループが地上波テレビを謳歌している様は、高齢筆者には虚しい限りです。

こんなにも素晴らしいパフォーマンス(歌と踊り)を披露していた彼女らの片鱗だけでも見られるYouTube様には大感謝です。
願わくば、歴史の向こうへと消えつつある彼女らの名歌唱がネット上にいつまでも末永く残り、光り続けられることを・・・。

*

以上、米軍施政下のオキナワに育ちながらも、沖縄復帰前後(1970~80年頃)に本土デビューを果たした人々の一部を紹介しました。

* * * * *

「筆者後記:沖縄祖国復帰に寄せて(その1)」

今を去ること48年前の1972年、戦後 米国統治下のオキナワが返還され、念願の祖国日本への復帰を果たしました。
故郷の島々は琉球王国の昔日に大陸・支那の文化的影響も受け、明治政府の琉球処分・廃藩置県により沖縄県となり、
その後の大戦で連合軍の史上最大の侵攻を受け、敗戦後の講和条約にて本土を離れアメリカの統治下に置かれました。
その間、米軍は地政学的見地からこの小さな島に膨大多様な基地を構築、その経済下で戦後沖縄は発展してきました。
朝鮮戦争時にも出撃基地として増大した基地はその後のベトナム戦争介入により更に戦略基地として強化されました。
そんな戦時下特需にての基地経済で発展しつつも、基本的人権は無視され、多くの悲劇が住民らにもたらされました。
先の大戦で多大な人的被害を被ったこの島は、今度は加害者の間接的協力者として基地機能に組み込まれもしました。
戦後、祖国日本は著しい経済的発展を成し遂げ成長を続けるも、戦争に翻弄された島にその恩恵は届きませんでした。
度重なる米軍の事故で、小学校にジェット戦闘機が墜落、児童ら合わせて住民18名が死亡する大惨事も発生しました。
そんな中、基地従業員らで組織された労働組合を中心に「祖国復帰運動」が盛り上がり、島ぐるみでの闘争が激化し、
占領下で度重なったタクシー強盗殺人や性被害や交通事故の米兵犯罪の無罪放免判決に住民の怒りが蓄積されました。
そして1970年、筆者高校1年在籍時、
コザ(現沖縄市)市内で米人による交通事故をきっかけに住民らに鬱積された怒りがついに爆発、大きな暴動へと発展。
深夜、集まって来た住民らが通りがかった米人車両を実に88台も襲って放火。いわゆる「コザ暴動」が発生しました。
幸い死者こそ出ませんでしたが、米憲兵(MP)250名・琉球警察500名が朝迄に鎮圧。大きな衝撃が琉米日に走りました。

「筆者注:ご参考までに」

筆者、転載を試みるもブロックが施されていて不可能な動画。以前は問題なしでしたが。
下記のYouTube上の動画2点、「コザ暴動」当時の貴重な記録写真が多数掲載されています。
上の琉球アンダーグラウンドは、沖縄在住の英米のアーチスト2人によるユニットの作品。
ベースとなっている音源は琉球古典の「かぎやで風」と言う祝典曲で、アレンジが秀逸です。
下は、上で紹介のC・Gの同曲ですが、労組の復帰運動の様子や、コザ暴動の動画も有ります。
興味のある方は、YouTubeにて下記検索の上、ご覧になってください。

Ryukyu Underground - Koza Riot

Condition Green - Heart Taker (on BC Street)


しかしこの事件が契機となり、日米間で返還交渉が加速。当時の佐藤栄作首相とニクソンン大統領 間で合意されました。

また沖縄の人々に対する差別的処遇は何も米軍施政下だけに限ったものではなく、日本本土との間にも存在していました。
それは長年の生活習慣や言葉の問題等が主な起因で、当時 沖縄出身者に対する本土からの偏見や差別は相当なものでした。
筆者も度々経験しましたが、アルバイト募集で電話をするも、沖縄出身だと言う理由だけで面接を断られたりもしました。
でもそれには統計的にも一理あり、復帰前に本土へと渡った多くの先輩らの作ってきた実績と評判がそうさせていたのです。
故郷の先輩らは「責任感欠如(遅刻欠勤)」「言葉遣い(タメ口)」「直ぐ辞める」等の悪弊蓄積が現実にあったがゆえなのです。
筆者もそんな悪い評判を払拭すべく尽力したもので、そのおかげで例外的な正社員登用を誘われたこと多数にのぼりました。
そんな南国風なラテン的気質も徐々には改められて、今では地元の結婚式等もちゃんと時間厳守で執り行われるそうです。
本来は当たり前の話しですが、故郷では長年「オキナワ・タイム」と言う悪習があり、1~2時間ズレは全然平気でした。
(-_-;)

また本土との格差に関しては体力的なことも存在していたもので、高校野球を例にとると復帰以前にはその差は歴然でした。
それが徐々に改善され、指導者らの努力もあって今では互角に戦う力を身に着け、全国優勝も成し遂げるようにもなりました。

芸能・音楽に関してもご存じのように、今では全国区の人気と実力を有する歌手やアーチストらをそれこそ多数輩出しており、
彼らに共通するものは、昔日より「芸能の島」としての伝統が無意識に活かされており、民謡にも根ざしたリズム感が秀逸で、
戦後に培かわれたアメリカの音楽文化の影響をも吸収し、今では百花繚乱のような個性の持ち主たちの島々となったようです。
但し、商業的見識に結構 疎いような人々も多くいて、豊かな才能に恵まれつつも開花できずに消え去る個性らもまた多数です。

残念なことに、
本土のメジャーと言われる地上波テレビを中心とする音楽界が供給する音楽は、多分に限定的な若者中心の世界のみであり、
幅広い年齢層や多様なジャンルを提供してはおらず、そのレベルは海外に比べても低く、従って需要側も育ってはいません。
需要側がマーケットとして商業的数量に達していない現状では、発信量の劣る個性的音楽家らに活躍の場は少ないものです。
願わくば、
これら故郷の音楽家らが東京と言う単元的地上波音楽界を超えて、ネットを積極利用して表現活動を行ってもらいたいものです。

* * *

来たる6月23日は「沖縄慰霊の日」です。
「鉄の暴風」と言われた「沖縄戦」から75年、
念願だった「祖国復帰」からは今年で早48年、
筆者が生まれ育った頃の故郷オキナワには無かった「基本的人権」も遅まきながらも得られるようにもなりました。
あれから48年、祖国日本と県となった沖縄は共に豊かになり、世界中から多くの人々が訪れるような国になりました。
昨年は島を訪れた人々、実に1千万人を超えたとのことです。「癒しの島」として多くのリピーターも生み出しています。

とは言え、
今年は国難的ウイルス肺炎感染禍にて、経済的基盤を観光産業にその多くを委ねている故郷は正に苦境の真っ只中にあります。
かつて地獄の戦場となった故郷は地を這って裸一貫で這い上がり、祖国復帰を果たし、その恩恵を享受することができました。
我が故郷沖縄、文字通りの「沖合に浮かぶ縄ヒモのような小さな小島群」の人々に再びの厄災が情容赦なく降り注いでいますが、
今まで幾度も這い上がってきたように逞しく生き延びて、先達たち同様に命の喜びや尊さを表現していってもらいたいものです。

(舌足らずながら、本日はこれにて。後日追記あるやも・・・)

By T講師 こと 当真 英樹