アトリエ・マイルストンブログ

2019年7月29日月曜日

祝・梅雨明けの沖縄ロック特集

月曜日・輝く快晴
アトリエ定休日
学童クラブ夏休みシフトの2週目

関東・甲信越地方の「梅雨明け宣言」が気象庁より発表されました。
今朝の眩しく輝く青い空を見て、長く暗く低温続きだった今年の梅雨がやっと明けたことを実感。
暑さに慣れぬ身体のままとは言え、頭上に輝く白銀雲はやっぱり良いものです。
V (^^) V

その流れで行くと、今日から本格的な「夏!」。
その流れを進めると、熱き日々にはやっぱり「ロック!」
熱きロックと言えば、やっぱり故郷のこの彼らでしょう!
と言うことで、今回の特集を早々と決めることが出来ました。
以下、お付き合いいただければ幸いです。

「 後日加筆のお知らせ 」
筆者の脱線昔話エピソードを、C・グリーンの記述の末尾近くに加えました。
心温まる内容だと思います。ご興味にある方、よろしければお読みください。


「ミュージック・ギャラリー(その369)」


「祝・梅雨明けの熱きオキナワン・ロック特集」


  Rainy season’s over today!

" LEGENDARY OKINAWAN ROCK BANDS SPECIAL ! "


2週に渡る筆者なりの「ビートルズ特集」、お楽しみいただけましたでしょうか?
2週目は、若かりし頃の筆者の経験や視点で「コピー・バンド」にこだわって編集してみました。
時折混ぜた筆者の「脱線昔話」と、今日の夏本番の青空が契機となり、今回の特集を組みました。
筆者、成人式を3度経験するほどの高齢者(当の本人にその自覚なし)ですが、「夏」と言えば、
「ロックでしょう~!」
と未だに、即座に条件反射をしてしまう程の若き頃からの単純な性格のままなようです。

そのロックと言えば、やっぱり原体験したオキナワン・ロックのスピリットこそが夏本番始まりの合図と化しています。
今回はそんな遠き過去に於いて筆者の原点となった故郷オキナワのロックの一部をYouTube上よりお借りしました。
嫌いな方には嫌いな「熱々ロックのエグ味」、お付き合いいただければ幸いです。
夏はアイスや冷そうめん等に限ると言われる方々、レッド・ホット・チリ・ペッパーな辛みでタップリ汗をかいて、
暑い夏にノックアウトされずに、暑い夏をこそノックアウトしてください。
「乗り切ろう」なんて受け身じゃダメ。「夏情緒を思い切り堪能しよう!」で行ってみましょう。
ロック嫌いな方々にとっては単なる騒音&雄叫び(-_-;)、どうぞ。
( ヘッドフォンまたは外部スピーカー接続にて、加えて大音量!で お楽しみください。)

* * *

オキナワン・ロック特集、そのトップ・バッターを飾るのは、ワイルドなパフォーマンスでならした伝説の彼らです。
では早速、露払いならぬ「梅雨払い」と参りましょう。
満を持しての登場、「いざ!」

コンディション・グリーン、「ハート・テイカ―(ビジネス・センター通りにて)」
Condition Green, " Heart Taker (On B.C. Street) " vocal by Kachyan (1977)

スタジオ録音盤とは言え、熱々さが「夏本番!」を感じさせてくれる熱演です。
コンディション・グリーンの特徴を決定づける七色夢幻ギターのシンキは正しく天才です。
彼らのバンド名は米軍の発令する「非常事態警報」を意味し、彼らにはピッタリな名前です。
彼らの狂気とも思えるワイルドさをレコードの溝に押し込めるのは無理なようですが、それでもその片鱗は刻まれています。
ベトナム戦争激化当時の在沖の数多くの荒くれ米海兵隊の兵士たちに圧倒的な人気を誇った彼らの本土デビュー盤の1曲目です。
そのメジャー・デビュー前、彼らの狂気・極上のライブを筆者も現地のクラブや野外フェスにて幾度も体験しました。
そのインパクトは既成ロックのライブの枠を超え、演奏とパフォーマンスの混在した唯一無比の圧倒的存在でした。

上の曲は、彼らの根城のオキナワはコザ(現・沖縄市)の歓楽街での女性との出会いを歌ったもので、リアルです。
この男女の出会いのドラマには続きがあり、同デビュー・アルバムの2曲目に入っていて下がその物語の続きです。


コンディション・グリーン、「ハート・ブレイカー(キャノン・クラブにて)」
Condition Green, " Heart Breaker ( at Canon Club )" ,vocal by Kachyan (1977)


前半・後半が劇的に分かれた構成ですが、詞の内容が分かると、この曲の展開がより一層魅力的なものとなります。
副題のキャノン・クラブは彼らの出演していた店で、やはり上の曲と同様にビジネス・センター通りにありました。
要約すると、恋人となった女性がいるものの、派手な世界に群がる異性も多く、浮気で恋人を失ってしまう話です。
前半部最後の" someday you will suffer like me (あんたもいつかそうなるのよ)" は、捨てられた恋人の捨て台詞で、
その女性風な言葉はギタリストのシンキが女性を演じて呟いており、この別れのドラマを一層 盛り上げています。
哀愁漂うマイナー調の後半部は、恋人を捨てた男の懺悔と一種の居直りを同時に歌っていて超リアルな劇世界です。
現地での米兵が観客のステージでは寸劇も取り入れていて、詞の内容も大切にする彼らの世界観が垣間見られます。
それにしてもシンキの七色夢幻ギターの歌心、その豊かさ、逞しさ、繊細さ、哀しさ、もう絶品・天下一品です。


3曲目の次の曲もまたドラマ仕立てです。
基地の街で育った男の、子供の頃の悲しい思い出を淡々と発露していて、筆者の胸に迫ります。

コンディション・グリーン、「チャイルド・オブ・イノセント」
Condition Green , " Child Of Innocent "  vocal by Tahke (1977)


詞の要約は、父のいない男の子が、生活の糧を得るために夜毎 自らの身体を売る母の様子を描いたショッキングな世界です。
「子供の頃は毎日が日曜日みたいで楽しかったし、そんな母のお金で買ったお菓子がやけに美味しかった」とも歌っています。
歌はデビュー時に在籍していたターケと言うドラマーで、メンバー全員が歌えると言うのが彼らの魅力であり、強みでした。
お金がないと食べてゆけない我が身や社会を嘆き、「マネー(お金)」だけが全て、お金が欲しいとひたすら呟いています。
当時の基地経済の街、オキナワならではの現実の悲痛が理解でき、借り物ではない彼ら独自の視線に尊敬を覚えたものです。
「マネ~ッ」と呟く中間部以降リフレインのドラム・タムとベースの重いフレ―ジングが織りなすアンサンブルが超絶品です。
ギター表現に関してはもはや言葉なく、これを天才の成せる技と感性と言わずして何を語ろうと言うのかレベルのお宝です。

*

さて、スタジオ録音盤3曲目(最後)を飾るのは、彼らの野太いビートが充満したラテン・ロックなナンバーです。
以前に当ブログの筆者のT講師コーナーで取り上げたので今回で2回目ですが、その重厚な貫禄、お聞き下さい。
歌うはこれまた天才的ベーシストの故エディ―で、歌もまた国内では比肩できない程の色気魅力の持ち主です。
多重録音の無いトリオ編成+コンガだけによるスタジオ一発録りの妙味が貴重です、しかとご堪能ください。

コンディション・グリーン、「シュガー・ベイビー・グッド・タイム」
Condition Green, " Sugar Baby Good Time " vocal by Eddie (1977)

リード・ボーカル兼メイン・パフォーマーのカッチャン、ここではコンガを叩いています。
もちろんの事、ここでもまた天才ギタリスト、シンキのギターが縦横無尽に歌っています。
この曲だけ、投稿動画の音源がレコードなので、彼らの実際の生サウンドに極めて近いです。



さて最後は、彼らのライブ・パフォーマンスの貴重な映像で締めくくりたいと思います。
本土デビュー後、ドラマーが悦さんに変わっているので、1年目あたりの映像だと思われます。
地元に於ける彼らのパフォーマンスに最も近い映像で圧巻です。
但し、東京のおとなしい観客を前に彼らもまた少々緊張気味です。
説明は不要ですね。彼らの全盛期の勇姿、とくとご鑑賞ください。

タイトル:「昔 沖縄には Condition Green いう凄いバンドがいた。」

テレビ東京の音楽番組「ジュン・サウンド・クリエーション」に於けるスタジオ・ライブ(於:東京)
Condition Green, studio live at TV Tokyo , 1978(?)

音質・映像共に劣化しながらも、今となってはとても貴重な映像です。
彼ら全員の溢れんばかりの比類なきショーマンシップ・ミュージャンシップが、燦然と輝いています。
彼らの当時のパフォーマンスの片鱗が垣間見れ、最後の方が切れているのが惜しいですが、投稿者様には大感謝です。

今振り返って見ると、個性的で非凡な面々が1グループに揃っただけでも奇跡的で、運命のいたずらに感謝する今日この頃です。
そんな彼らを本土マスコミの一部は「いかもの・げてものの類」の単なるコピー・バンドとして記述、下げたりもしていました。
彼らより1年前にデビューをした「紫」と共に、沖縄ロックは本土でも市民権を得、一躍 爆発的な人気を博すようになりました。

*

そんな彼らがメジャー(東京)デビューして間もない頃、
国連のジャパン・イヤーの際(年に1か国を選出)に、日本代表としてオキナワ・ロックの彼らと紫が選出されました。
その当時の並みいる音楽家のレコードを基に選定が行われたとのことですが、選考委員の耳が確かだったのでしょう。
紫は辞退するも、コンディションの面々は我が国代表として太平洋を渡り、ロックの本場へ御礼参りを果たしました。
彼らはN.Y.で絶賛され、評判を聞いたディズニーランドやL.A.の著名な老舗ライブハウスからもオファーが舞い込み、
ディズニーランドでの様子は、半円形舞台上の人間タワー中の彼らと、周りを埋める数多くの肩車姿の親子連れが写っており、
パフォーマンス後は、舞台前に多くの観客たちが駆け寄り、彼らを握手攻めにする親子の微笑ましい様子が写っていました。
記事には、こんなにご機嫌なバンドはこちらにもいないので、是非ともアメリカに移住して下さい、と切望されたとのことです。
現在は廃刊となったロック音楽雑誌ですが、今となっては貴重な資料なので、若い頃に熟慮なく廃棄したことが今は悔やまれます。
また多くのV.I.Pたちが訪れることでも知られるライブハウス「ウィスキー・ア・ゴーゴー」でのパフォーマンスも絶賛を浴び、
ライブを見たキッスのメンバーの何人かやギタリストのあのスティービー・レイボーンらの知己を得たとも聞き及んでいます。
その縁もあって、キッスの来日時公演の前座(オープニング・アクト)の指名がキッス本人らサイドからあったとのことですが、
受け入れ日本側のプロモーター側の反対(その噂の有力な物には圧力説もあり)に遭って、残念ながら現実化はしませんでした。
更に付け加えるならば、
生前、テンガロン・ハットとハッピ姿が定番だったS.レイボーンは、シンキの姿からインスパイヤされたとの説もあります。

しかし、地元沖縄では米兵を中心に圧倒的人気を誇った彼らの本土での人気は以外にも長くは続きませんでした。
東京デビューの際のコンサート(中野サンプラザ)には大勢の観客が詰めかけたものの、満を持したはずのパフォーマンスが不発、
その初回の失敗の影響はとても大きく、2回目のコンサートは「名誉挽回」とばかりに素晴らしい演奏内容だったものの、
初回公演に失望した観客らの足は戻らず、期待大きく鳴り物入りでデビューを果たした彼ら、早々と失速してしまいました。
そして1年後に発売された2枚目のアルバムのサウンドもまた彼らの従来のサウンドにはほど遠く、更なる失望を買いました。

彼らのその狂気溢れるステージには彼らなりのそれなりの理由があり、戦地へと赴き、2度と還って来れない兵士たちのため、
可能な限りの最大のショーマンシップにて、明日をも知れぬ彼らの旅立ちを見送りたいとの気持ちもあったと聞いています。
高校生の筆者もそんな若い米兵たちに囲まれ、汗まみれながら、彼らの極上パフォーマンスを心ゆくまで堪能したものです。
先程まで筆者の傍らで絶叫していたガタイの大きな若い米兵たちの目に浮かぶ感涙の光を見たことも度々あり、
彼らのはなむけの音楽と大きく豊かな心意気は、米兵達の胸にもしっかりと届き理解し、焼き付いていた訳です。
オキナワでの最後の夜を、彼らの演奏で締めくくったと言う兵士たちも数多くいたとのことも聞き及んでいます。
戦地で使うお金や場所はない!とばかりに、貰ったばかりの給料を全て使い切り、ばらまいた輩も多数と聞いています。

半世紀を経た今ですら、彼らの英語スペルのタイトル動画では、米国本土より数多くのコメントが投稿されています。
"absolutely(全くの、完璧な、究極の) crazy"はこの場合は尊称で、親しみと尊敬を込めてそう語られている彼らです。
その証しの1つに半世紀後の今日に、愛息を連れて彼らに会いに訪れる元米兵もいて、旧交を温めているとの事です。



米国本土からの新兵たちだけではなく、ベトナムの地にて戦闘を経験した一時休暇中のすさんだ米兵たちも多数混在していて、
はじめは怖さを感じていた米兵たちでしたが、ステージの彼らが我々少数の現地ファンを丁重におもんばかってくれ、
演奏の合間には、緊張気味の筆者らの前にやって来ては肩に手を置き、一服の煙を吐き出しながら、こう言うのです。
「アッセ、シワサンケー、アッターン・イッタート イヌムンドゥヤンド―、ターチミーチワービヌ・イナカーターテー。」
(心配無用よ~。彼らもあんたらと同じよ。2~3歳ばかり上の田舎っぺ達なんだよ~)と言い、また肩を2~3度 叩き直すのです。
酔客によるトラブル発生を事前を察知して「彼らに手を出すと、俺らが承知しないぞ」と時折警告を発してもくれました。
彼らが酔った米兵に殴られたと言うような事も一切なく、逆に演奏後は「俺に肩車させてくれ」と迫られてもいました。
また悪酔いしている暴力的になった兵士には、周囲にいる彼らのファンらが酔客兵士の悪態を積極的にいさめてもいました。
リーダーのカッチャンは沖縄ロック界の父親的存在で、その人間力は多くの米国人たちにも慕われていることで判ります。

筆者の経験を少々記すと、70年代後期に彼らの肖像を撮影したことがあり、度々彼らのライブハウスへ足を運びました。
目的も達し、撮影の御礼と離沖の挨拶に顔を出すと、その日クーラーで冷え冷えの広い店内は誰も居ずの閑古鳥でした。
「ダァー、今日は誰も来ないねぇ~。店のシャッター降ろしてこようねぇ~。たまにはこんな日もあるわけよ。」
彼らは演奏をやめて、筆者と助手の義弟を相手にユンタク(おしゃべり)休憩でも取るのかとでも思いきや、違いました。
たった二人だけの筆者らを相手にいつものような熱演を延々と披露。しかもその上、あの人間四重タワーまでをも披露。
筆者らは感動の余り、ビールを給仕してくれた彼らの恋人の米人女性の手酌を受けながらも涙を流してしまいました。
クーラーで冷えた店内にステージ照明、バンド・メンバー4名にウェィトレス役をしてくれた2人を合わせた計6名で、
いつもと何一つ変わることないような自然な振る舞いで、ビール2本注文のたった2人のためにやってのけたのです。
その筆者ら2人の完全貸切状態の演奏も、手抜き等と言う言葉は彼らにはさも存在しないかのような熱演だったのです。
しかも「リクエスト大会にするから何でも言って!」てことで、筆者の大好きな彼らの得意ナンバーを所望しました。
そんな沖縄のロック・バンド、仕事柄 彼らのレパートリーは平均でも常時で実に200曲余にものぼるとのことでした。
別れ際に真相判明、初めから店の看板は消えていて、しかもCLOSEDの札もそのまんまだったと言うとんだ笑い話でした。
「やっぱり沖縄は良いでしょう~?今度はいつ帰って来るねえ~?その時は水釜に一緒にダイビング行こうねぇ~。」
それから程なくして潜水中に俘虜の事故で亡くなってしまったエディーさんと交わした最後の別れの言葉でした。合掌。

つい先日、日テレの番組でビギンが出ていて、その中で随分と歳取ったパパ・カッチャンの姿を目にしました。
最新に近い動画では、さすがに声が出なくなっていたようなので、時の流れを感ぜずにはいられませんでした。
今年はコザの彼の店に足を運んで、是非にでもお会いしに行こうと心に誓いました。
またコザの歓楽街、まだまだ危険なイメージがありますが、訪沖の際には彼の店にも足を運んでみてください。
絶対お会いする価値のある人間力の持ち主です。きっとギラついた優しい目で歓迎してくれること請け合いです。
カッチャンの店(沖縄市中央)の名前は「ジャック・ナスティー」。きっと素晴らしい夜になることでしょう。
カッチャンの温かい人柄に加えて、あの天才ギタリスト・シンキの神技プレーにも出会えるかもしれませんよ。
(*^-^*)

またまた脱線昔話が長くなりそうなのでここら辺でやめておきますが、最後に一つだけ付け加えるのならば、
また基地の街・コザの歓楽街には、米国本土同様の人種差別的区画・区域が暗黙のうちに頑と分けられており、
その領域に進入でもしようものなら、袋だたきに遭うこともしばしばだったそうですが、彼らがそれを覆しました。
彼らの根城のクラブが積極的に人種の混合を許容し、その見えざる壁を打ち破っていったのも彼らの功績の一つです。
また米軍や兵士らの度重なる暴挙で、暗く沈んでいたオキナワ住民(まだ県民とは呼べない時代)や若者たちの心の中に、
何らかの実力さえあれば、彼らと対等、もしくはそれ以上の尊敬を勝ち取ることが出来るのだと言う自信を獲得させ、
米国に対するコンプレックスの固まりだった当時の多くの若者たちに希望と勇気を与えてくれたことも重要な事柄で、
政治家や行政の努力だけでは成し得ない米軍人との交流を目の当たりに見せつけたと言うことも彼らの大きな功績です。

* * *

「 筆者によるインタリュード(中間部) 解説 」


祖国復帰前・米軍施政下のオキナワはベトナム戦争激化の影響で、後方支援の重要な兵站基地としての機能が強化されており、
それに伴う米国4軍(陸・海・空・海兵隊)兵士や軍属その関係者がおり、現在の比にはならないほどの米国人が溢れていました。
そのような背景の下、基地を多く抱えた本島中部の街を中心に多くの軍関係者需要を満たすため、歓楽街も未曾有の活況を呈し、
ロック音楽を聞かせるライブハウスも乱立。遠くフィリピンや本土からも多数のロック・バンドが来沖、その需要を満たしました。
地元のバンドも多数が集合離散を繰り返しながら、群雄割拠の状態にて夜の歓楽街にロックの強烈サウンドを炸裂させていました。
更なる客引きのためか、通りに面したドアや地下の通路からは、エコーがかかった大音響があちらこちらでコダマしていました。

そんな状況下、米兵達に圧倒的支持を得ていたのは地元のバンドたちであり、ブリティッシュ・ロックからアメリカン・ロックまで、
幅広くこなす技術と力量と柔軟性があり、若き米兵達の求めに応じて新旧様々なリクエストを如才なくこなしていたものです。
数多く来沖したフィリピン・バンドの面々も、その歴史(スペインや米国統治)やラテン的な性質上、豊かな音楽的才能に恵まれ、
サンタナなどのラテン物には長けていましたが、半面ブリティッシュ・ロックやハード・ロック系の曲にはある種の甘美さが残り、
若い米兵たちからは人気がなく、本土出身バンドも良く言えば端正な演奏スタイルで、米兵たちの欲求不満を募らせていました。

様々な理由による集合離散を繰り返した結果、地元バンドにはいつの間にやらビッグ・スリーと言われるような存在が確立され、
コザ(主に空軍)や金武(キン、海兵隊)や那覇(空・海軍)各地のライブ・ハウスにて米兵相手に八面六臂の大活躍をしていました。
ビッグ・スリーの他にも「寿(ことぶき)」「サジタリアス」「メデュ―サ」等 多数がおり、それぞれがしのぎを削っていました。
少し解説しますが、海兵隊は語尾に隊とあるので、多くの日本国民は陸・海・空の3軍よりも小規模のものだと思いがちですが、
この「海兵隊」の存在こそが米国軍隊の中心であり、肝心要(かなめ)であり、それが世界最強と言われる軍隊を形作っています。
陸・海・空の全ての戦力を所有し、海外での不安定要素があれば、真っ先に出動・展開し、戦闘を開始する最強の精鋭部隊です。
また戦地へと出世した兵士達の一時休暇の地でもあったオキナワは、心がささくれた米兵による凶悪犯罪にも悩まされましたが、
地元のロッカーたちは当時 米国本土で流行っていたラブ・アンド・ピースのヒッピー精神を仕事現場で実践し、融和を進めました。

そんなロッカーの彼ら、
人々に危険と思われ敬遠されていた米兵街に敢えて足を踏み入れる地元の若者(筆者らも含む)らを快く歓迎・庇護してくれました。
単なる職業としてだけに留まらない彼らは、往々にして人種的偏見を持つ者の多い米国の兵士たちの支持と尊敬を集めていったのです。
そんな彼らの全盛期の収入は莫大な数字にのぼり、琉球政府の長である主席の給料を軽く何倍も上回るほどの金額を稼いでいました。
そんな結果で、彼ら自身がライブハウスのオーナーとなり、当然 店内の音響設備にも高額な投資を行い、理想的な環境を築きました。
下世話な話が続きますが、その一環で、みかじめ料を請求するヤクザの干渉とも戦い、従来の不可侵システムをも破壊していきました。
成人式を3度も迎えて超えた筆者、その今でさえ彼らのその優しさや温かさを想い返す時、胸と目頭がぐっと熱くなってくるのです。

* * *

さて次は3大バンドの2グループ目の登場です。
残念ながらビッグ・スリーの一角を成す「キャナビス」に関しては、YouTube上には映像動画なく、今回は残念ながら断念しました。
キャナビスは、オキナワの誇る名ギタリスト糸数ガンジー擁するハードロック・バンドで、そのスリリングな演奏は絶品でした。
ジェームズ・ギャングやグランド・ファンク等、骨太なアメリカン・バンドを彷彿とさせ、本場の米国人らにも絶賛されていました。

何代かのメンバー・チェンジがあるものの、糸数ガンジーは不動で、その超絶スライド・ギターに惹きつけられていたファン多数です。
そのキャナビス、本土デビューはビッグ・スリーの中では最も遅く、そのせいか流行変遷への時代対応を事務所側に迫られたようで、
グループ名も「サンディエゴ」とウェスト・コースト風に改名し、サウンドの方もワイルドさを払拭して洗練されてしまいました。
今回はキャナビス全盛期のメンバーではありませんが、サンディエゴ名義アルバムの中の1曲をお借りしてきました。
リード・ボーカルのジ三―さんも抜け、往時の勢いやワイルドさこそありませんが、その片鱗だけでもお聴きください。
腰のある粘りは健在で、初代キャナビスの要石、重戦車ドラムのチビ(宮永英一)さんがリード・ボーカルを務めています。

サンディエゴ、「ペニー」
San Diego (Their old name " Cannabis") , "Penny " (live)

筆者、往時のキャナビスの大ファンだっただけに、どこのバンドだかまるで分からないバンド名に大いに落胆・失望したものです。
そうとは言え、彼らの東京でのコンサートやライブ等にも幾度か足を運びましたが、その気持ちには複雑なものが多々ありました。
イーグルズやドゥービーらの西海岸サウンドが巷で流行ってきたとは言え、自分らの姿勢や持ち味までそのイメージに沿わされて、
メジャー(東京)・デビューを果たした彼らを応援しつつも、心の底では筆者の知る彼らではない無念さをも同時に抱えていました。

そんな忸怩(じくじ)たる思いの筆者、そこで妙案を思いつきました。
これは立派な反則技とは自覚しつつ、敢えてそうさせていただきます。

(キャナビス見立ての)グランド・ファンク・レイルロード、「ミスター・リムジン・ドライバー」
Grand Funk Railroad , " Mr, Limousine Driver ",( instead as Cannabis)

ロック・バンド最小編成(トリオ)による粘っこい後ノリ・ビートの醍醐味が超快感です。典型的アメリカン・バンド。
キャナビスはギターが2人、よってグランド・ファンクのこの録音盤を正しく再現。否、生ゆえ、それ以上の迫力でした。
筆者のバンドもツイン・ギターだったのでキャナビスは極上の師匠で、彼らのパワーとビート目指して筋トレの思い出も。
彼ら同様の粘りヘビー・ビートが欲しくて、既成ハイハットの音質に飽き足らず、より大サイズのクラッシュ2枚を使用、
太く重いスティックにて、8ビートの打撃を横殴りにして粘りを得ました。シャット時のエアー吐き出し時も快感でした。
また大小2枚のシンバルにも無数の鋲が付いた後付けのアタッチメントをセット、音量とサスティーンを稼ぎ出しました。

同じく、
(キャナビス見立ての)ザ・ビートルズ、「バック・イン・ザ・U.S.S.R」
THE BEATLES , " Back In The U.S.S.R " ( instead as Cannabis)

イントロのドラム&ベースが刻む力強いビートを聴いただけで、筆者・身体中の血が騒ぎ興奮マックスになったものです。
この疾走感、堪りません。筆者にはもうビートルズではなく、キャナビスの彼らが演っているような錯覚に襲われてしまいます。
その他にもジェームズ・ギャングのファンク49や、ツェッぺリンの移民の歌、クリームのスリーピー・タイム・タイム等々・・・、
キャナビスの生演奏と歌はコピーバンドの域を超えて、さも彼ら自身が生み出したオリジナルであるかのように聴こえたものです。

基地の街・米兵相手の街コザで成功をおさめた彼らの那覇での凱旋コンサートがあり、筆者も胸躍らせ足を運びました。
会場には予想をはるかに超えた米兵らが集結していて驚きましたが、彼らのパワフルな演奏にはもっと驚いてしまいました。
ステージ脇に高く積まれたPA用の巨大スピーカーのフロント・ロード部分に上半身を突っ込み、忘我の境地に浸る若き兵士等々、
彼らの満身を使った狂喜乱舞ぶりには筆者らも唖然とするしか術はなく、その純粋な素直さが逆に羨ましくもなりました。
2時間超にも及ぶコンサートが、たったの2~30分ほどで終了したかのような、ワープ風な錯覚に捉われたものでした。
彼らの原曲レコードをも超える迫力と力強いビートとスリル感に高校生の筆者、身体の芯までシビレきっていました。(*^-^*)
彼らとの出会いは筆者のロック魂をより強固なものに増幅、更にバンドに精進、勉学そっちのけの親不幸息子と化していきました。
筆者にとってロック・バンドとは「キャナビス」彼らのことであり、そのサウンドとスピリットは今世紀の今も鮮やかに蘇ります。

* * *

さて今回特集のトリを務めていただくのは、本土デビューで最も認知度と人気の高かった横綱バンドの登場です。
その名も「紫」、命名は彼らがリスペクトする英国のディープ・パープルからその名前を貰ってきています。
他にもピンク・フロイドやキング・クリムゾン、ユーライヤヒープ等、名だたる難曲も見事に再現していました。
彼らの東京初上陸の際には、ええっ日本にこんなにたくさんの外国人がいるの?と言うほど多くの外国人の姿が、
そして彼らの噂は遠く欧州にも口コミ飛び火、ネットのない当時では記録的なレコード・セールスを記録しました。

まずは彼らの本土デビュー・アルバムから、そのオープニングを飾る曲をどうぞ。

紫(むらさき)、「ドゥー・ホワット・ユー・ウォント」
Murasaki , " Do What You Want " (1976)

彼らの圧倒的技量によるオリジナル、今聞いても新鮮で彼らの音楽家能力の高さがあらためて再認識できます。
「好きなことをやれ!やりたいことをやれ!自分だけの路を進め!」彼ららしい力強いメッセージが熱いです。



今回、当時の貴重な沖縄・那覇でのライブ映像が入手できましたので、YouTube上よりお借りしてきました。
当時のビデオ・テープ撮影なので一部に映像・音響の乱れがありますが、この時点でのデジタル化は最善です。
那覇市内でのコンサートの模様、観客層が盛り上がってはいませんが、彼らの演奏がしっかりと聞けます。
昭和の時代に米英より入って来たロック音楽が、日本国内に定着しているのか筆者には判断不能ですが、
少なくとも彼らの演奏には借り物ではない独自性もあって、その能力には他の追随を許さないものがあり、
21世紀の今日においても彼らを凌ぐバンドの出現は無く、今もなお圧倒的力量による存在感は色褪せません。

紫(MURASAKI)、那覇市豊見城城址公園に於けるライブ
オリジナル4曲メドレー

上の「ドゥー・ホワット・ユー・ウォント」がやはりオープ二ングを飾っていました。
最後、4曲目の「Maze」途中で残念にもテープが途切れていて欲求不満になりますが、続きは下の動画で・・・。

紫、「メイズ(迷宮)」インストルメンタル
MUrasaki, " Maze ",Instrumental, From Murasaki's debut album (Way back in 1975).

圧巻!けだし荘厳



さて最後は比較的新しい動画をフィナーレとしてお借りしました。
一世を風靡したオキナワン・ロック、何も過去のものではありません。
故郷沖縄で彼らは自分自身の活動拠点を見い出し、今世紀の今も新しい熱きロック旋風を奏で続けています。
東京を中心とする地上波マスコミの情報には上がりませんが、その地道な活動は新たな若い世代のファンをも獲得。
コンサートの際には国内本土はおろか、外国からのコアなファンも会場へ駆け付けてくれています。

okinawa rock_8 紫~MURASAKI~

復帰40周年記念ロックの日スペシャル~オキナワンロック・過去から未来へ~ 「OKINAWA ROCK WILL NEVER DIE」2012.6.9[SAT]

素晴らしい圧巻のライブ・アクトです。重厚なボトムによる粘りあるビート、ベテランの彼らならではの成熟世界です。
特に中盤からのモンスター~マザーネイチャーズ・プライト・メドレー以降のインプロ等が重戦車のような横綱ぶりです。
オリジナル・メンバーの比嘉清正さんと下地行夫さんが、良い歳の重ね方をしたらしく一段と味わい深いお顔になりました。
両者のツイン・リード・ギターも益々円熟味を増し、艶やかで伸びやかなサウンドにナチュラル・トリップが加速されます。
ハモンド&レスリー巧者のジョージさんのスリリング&リリカル・メロディーも益々冴えていて老いなど微塵もありません。
チビ(とそのまま呼んでくれと言われ、尊称の「さん」を付けると、頭にオも付けそうなのでとの理由。宮永英一さん)は、
我が国の並み居るドラマー界に於いて、「パワー」「パッション」「テクニック」の3拍子が揃った最も卓抜した演奏家です。
彼の演奏は、レッド・ツェぺリンの重戦車ドラマー、ジョン・ボーナムの熱きスピリットを最も感じさせてくれるドラマーです。
筆者、幸いにも高校時代より知己を得、彼の音楽に対する真摯な姿勢や情熱など、その影響には計りしれないものがあります。
加えて、その気さくな性格に根ざした豊かな人間性で、琉球太鼓などの指導活動も行い、今も多くの若者たちを育てています。
後年(70年代後半)、写真展を企てていた筆者、彼や紫のメンバー等の肖像も撮らせていただいたこともあり、感謝の一言です。
_(._.)_
( いずれ当ブログ上にて、彼らのその際の肖像写真を投稿したいと願っているも、この調子だと一体いつになるのでしょうか?)
( ;∀;)
新生「紫」Members:
Guitars - Yukio "GG" Shimoji, 下地行夫(オリジナル・メンバー) Vocals - Hiroto "JJ" Arasaki, 新崎ヒロト (通称JJ, 筆者漢字不詳) Drums - Chibi (Eiichi Miyanaga) ,宮永英一(オリジナル・メンバー) Keyboards - George Murasaki,ジョージ紫(オリジナル・メンバー) Guitars -Keith - (Kiyomasa Higa) ,比嘉清正(オリジナル・メンバー) Bass - Chris Teruya, クリス照屋

彼らの更なる活躍、期待したいものです。
今度の帰郷の際は、是非とも彼らとの再会をと目論んでいます。
以前、撮影しながらもプリントに回せなかった彼らの若き日の写真を手土産に・・・。

故郷・沖縄のオキナワン・ロックのバンドの皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします。
「 二へ―デービル(感謝)」

To All Member of Okinawan Rock Band.

" I hope your health and lot of happiness."
" You were always No.1, and still keep No.1 to me,
 even now."
"So long, and See you again !"
"So many Thanks."

Japanese English By Hideki "Hicky" Toma
from Kanagawa,  so far away from you.

* * *

「オキナワン・ロック特集の終わりに寄せて」

以上、オキナワン・ロックのビッグ・スリー・バンド(一部に代用品あり)の動画をお届けしました。

かつて筆者のヒーローだったビッグ・スリーの彼ら、その寿命を縮めたのは意外にもメジャー・デビューがその契機となりました。
レコードも発売されたものの、業界的な契約上の不満はいずれのバンドにもあったようで自らの楽曲の音質でさえ自由に出来ず、
歌いたくもない日本語の恋愛曲を出すようにも説得されたりしたとのことで、そんなことだったら沖縄で自由気ままにしたい。と、
彼らはさっさと東京基準(価値観)に見切りをつけ、本土的な名声を得ることに終止符を打ち、自らの地へと戻っていきました。
復帰前の故郷を訪れたロック・ファンらによる自然発生的な評価が大きな評判となり、彼らも本土デビューを果たしましたが、
その最盛期は短く、また過去にあったグルーサウンズの隆盛とその急速な没落のストーリー同様に彼らもその運命をなぞりました。
「出る釘は打たれる」「持ち上げては、落とす」のは業界の常・・・。本土進出後の彼らを取り巻く状況の潮目が急激に変わり、
本土マスコミや音楽業界は彼らを正しく理解・受容せず、まるで手の平を返したようにその多くが逆の言動をすら取り始めました。
曰く、C・グリーンはジ三・ヘンドリックスの単なるコピー・バンド、紫はディープ・パープルの単なるコピー・バンド云々・・・。
彼らのオリジナルはその単なる焼き直し云々・・・。ではその当時、彼らを超えるだけのオリジナリティー豊かなバンドがいたか?
彼らのように欧米のロック・ファンから支持され得る英語詞で勝負できるロック・バンドが果たして国内に存在したのでしょうか?
「贔屓の引き倒し」を敢えて行いますが・・・、まずロック音楽の根幹である力強いビートの出せるロック・バンドなど皆無でした。
筆者、上京後に数多くの有名人気バンドのライブを経験しましたが、その多くが器用さに長けてビートに乏しいのが大方の傾向でした。
当時、国内在住の欧米出身の外国人の多くが例外的に支持・認めていたのがロック・バンドとしてのオキナワン・ロックの彼らでした。
だからこそ、その口コミ評判が米国やヨーロッパの国々での異例なほどの記録的なレコード・セールスやライブ動員に繋がったのです。
それにもかかわらず、本土マスコミや既存の音楽業界は彼らを認めるどころか、彼らの台頭を妨害し、誹謗中傷し、葬り去ったのです。

以下は噂の域を脱しない話ですが、とある音楽界のドンが自らの保身のため、沖縄ロックの面々をツブシにかかったとの事でした。
「日本のNo.1、最高のロック・バンドの登場」をキャッチフレーズに、自らのバンドにて来沖・野外公演経験のあるそのドン、
初陣の演奏に観客の米兵らから失望の大ブーイングが湧き起こり、前座の地元バンドに即替われと総スカン喰ったそうな・・・。
米国人の国民性は我々とは違いエンターテインメントに厳しく、良い物・そうでない物に明確に意思表示する気風を持っています。
その野外公演の際の前座を務めていたのが、今回のオキナワン・ロック・ビッグ・スリーの本土デビュー前のあるグループでした。
( ;∀;)
( 後年、同様なことが繰り返され、やはり故郷出身の男性ボーカル・ダンス・グループが業界内で干されたことがありました。)
( 様々な利害関係が発生・交錯する自由競争社会や業界に於いては、表沙汰には出来ない裏工作もまた自由に成されるのです。)

彼らが本土の音楽界から姿を消しておよそ40年、その間にも多くのロック(と言われる)バンドが登場、メジャーとなりました。
がしかし、彼らの後を継ぐような本物のロック・サウンドを奏で生み出すバンドの登場は、筆者的には見られませんでした。
ロックが根付いたと言われて久しい国内の音楽界ですが、彼らのパワー&ビートによるサウンドに包まれて育った筆者には、
その言説に素直に賛成できるものではなく、ロック・ミュージックの基準の曖昧さ・甘さをつくづく感じずにはいられません。
国内の多くのバンドは、ロック・バンド同様の楽器編成にて、ビートレスで演奏する歌謡曲の1ジャンルだと感じています。
黒人音楽を根幹にした米英のロックの持つある種いかがわしい程の色気をも感じさせる国内バンドに未だゆきあたりません。
身体を張って、その奥底から流れ出てくる借り物ではない力強いビートとサウンドに、筆者は未だ遭遇できてはいません。

彼らの動画のコメント欄にもありましたが、
こうして振り返ってみると、彼らが本土で活躍できた70年代後半が我が国のロックが世界水準に最も近づいた瞬間かもしれません。
歴史にIfは存在しませんが、本土の音楽界がオキナワン・ロックの彼らと、もし共存できたなら、お互いが刺激し合い、切磋琢磨し、
音楽性の向上を互いに目指していたのならば、我が国のロック界は現在よりももっと国際的な存在になっていたのかもしれません。
当時、商業的な勝敗は決着したかもしれませんが、文化的側面の視点では、それは後退を意味したように筆者には思えてなりません。
( 筆者の上から目線、贔屓の引き倒しの独断的・辛口批評にて、否定・批判・反発・反論は甘受します。)

オキナワ・ロックの彼らの英語スペル・タイトルの動画には、今もなお進行形で多くの外国人らが賛辞のコメントを寄せています。
世界と直接繋がれるインターネット時代、本物は国境・言葉を超え探し出され認められる、表現者にとって良い時代となりました。
ロックの先祖・米英の音楽界と互角に競合し、彼らの度肝を抜くビートフルな国内バンドの登場を願いつつ、今回特集を終わります。
お付き合いいただいた方々、感謝いたします。
_(._.)_

* * *


今回もまた今までに劣らずの重量級となってしまいました。

以前(2017年5月)、筆者の「T講師コーナー」にて「沖縄復帰特集」の中で、彼ら沖縄ロックも取り上げました。
今回の楽曲とは一部重複していますが、筆者撮影の彼らの写真をはじめ、その当時を知る映像資料が満載です。
御関心のある方は、ついでにお立ち寄りください。↙印、下のタイトル、クリックすればそこへリンクします。


2017/05/15

他にも本土復帰前のオキナワの色々な写真資料が満載です。ご覧になっていただければ幸いです。
(*^-^*)



今回もまた記したいこと多過ぎて、結果 やはり支離滅裂となってしまいました。
推敲無しの文章・内容で申し訳ありませんでしたが、お楽しみいただけたのなら幸いです。
_(._.)_

半世紀程も前の大昔のローカル・マイナー・ネタ、パスされる方々多しの筆者予想、
にもかかわらずの確信犯的な今回ブログ、さてその結果としての訪問数やいかに?

By T講師

梅雨明けと共に猛暑を呼び込む太平洋高気圧が列島に覆いかぶさってきています。
特に暑さには慣れてはいない今年の夏始まり、熱中症には充分気を付けましょう。
充分な水分と睡眠、お互い心がけましょう。



「P.S.:追記」

一足先に「梅雨明け」した故郷・沖縄・・・。
今頃、夏盛りの本番「エイサー祭り」に向けて、県内各地の辻々では各種の太鼓が高らかに鳴り響いていることと思います。
手首の強力スナップで鋭く打ち鳴らす太鼓の低周波と若者たちの気合かけの高周波とが入り混じって闇を切り裂いている頃。
汗が飛び散り、涙が滲み、声が涸れ、血に染まる手。不覚にも本番直前の故障に泣く者も少なからず・・・。いるんです。

そう言えば、そんなエイサー太鼓もロックと同様の力強いビートが命。
それは演る者・踊る者の力強き心臓の鼓動ビート。とは生命のビート。
命の鼓動の、躍動する喜びのビート。他者をも巻き込む魔法のビート。
ロックと同様の原初の胸騒ぎ。どおりで胸高鳴り、共に血騒ぐわけだ。
それを故郷ではチム(肝)・ドンドンと言う。
歳など関係なく、いつまでもチムドンドンする自分であり、日々でありたいと思う。

な~んちゃって(;^ω^)

By T講師

2019年7月22日月曜日

ビートルズこそ我らがアイドル

月曜日・曇り 一時 小雨
アトリエ定休日

夏休みに突入の本日より、学童クラブは早朝迎えが始まりました。
1年の内、1日が最も長く感じられる季節の始まりです。
学童たちの有り余るパワーに負けないよう、頑張ります。
!(^^)!

* * *

「ミュージック・ギャラリー(その368)」


「ビートルズこそが、我らの永遠のアイドルでショー!」


今回も前回コーナーの続編としました。
ビートルズの音楽をこよなく愛する欲張り者の筆者、趣向を変えた続編を懲りずにアップいたしました。
前回は彼らの若かりし頃の公演映像を中心に構成しましたが、今回は他の音楽家の演奏を集めてみました。
彼らのカバーを歌う(演奏する)音楽家、それこそ世界中に進行形でもの凄い人数・作品(楽曲)になります。
筆者の大昔、ロックのコピー・バンドをやっていた関係で、今回はカバーではなくコピーを選びました。
お付き合いいただき、更に加えてお楽しみいただければ幸いです。

彼らが解散して 早49年!。来年は50周年!
彼らの紡ぎ出した数多くの楽曲が、21世紀の今日でさえ未だ世界中の人々から広く深く愛され続けています。
彼らの活動期から、その後の現在に至るまでに発表された公式数、何と実に278曲!
彼らの音楽の大ファンの筆者とて、その全ては聴いていませんが(興味あり)、その多くが佳曲揃いでしょう。
今回はそんな中の一部ですが、彼らの愛され続けているヒット曲のコピー集です。
前置き長くなる前に、早速 行ってみましょう!

おっと、その前に!


御本人たちの若かりし頃のスタジオ・ライブを1曲、お届けします。
前回の公演特集(その当時はライブと言う表現はありませんでした)とは異なり、比較的に良質な録画と録音です。
彼らの等身大の才気が余すところなく発揮された正にお宝映像です。
どうぞ。
(筆者注:スマホ等でお聞きする方、外部スピーカーやヘッドフォン使用をお勧めします。)
(ヘッドフォンは現在百均ショップでも300円程度で入手可能。低音の再現性が向上します。)


ザ・ビートルズ、「ティル・ゼア・ワズ・ユー(君に出会う前は)」、ロンドンでの王室公演
THE BEATLES " Till There Was You "( Cover,1963) ,( Composed by Meredith Willson 1957 )

彼らの存在を知った小5の頃より彼らは大人で、筆者高校時代の彼ら晩年の芸術家然とした風貌など、いつでも大人でした。
ところがこの彼らの表情、どれほど若い青年たちであったかがよく理解できます。
否、青年どころか少年の面影すら色濃く残すポールの表情と歌唱が胸に迫ります。
ポールが前説でソフィー・タッカーたちの曲(実際はソロ歌手)だと冗談を飛ばして、観客を沸かせています。

ラテン・リズムのゆったりとした後のりビートの演奏が、典型的コンボ・バンドの最小編成で絶妙です。
ジョージの間奏は、米国のギター職人チェット・アトキンスの影響が濃厚ですが、オリジナル曲の間奏のまんまコピーだとのこと。
その後、この編成(リード・ギター、リズム・ギター、ベース、ドラムス)はスタンダードとなり、多くのバンドが追随しました。
ここからは毎度の脱線話となりますが・・・、
筆者も中学時代、高校時代(高2はリード・ボーカル加入)にその編成を楽しみ、時に鍵盤やパーカッションを加えて楽しみました。
( ラテン・ロックのサンタナも大好きで、コンガ等を加え彼らの多くの楽曲をコピー、ダンス・パーティー等で好評を得ました。)

* * * * * *

さて、ここからが当特集のコピー・メドレーの目白押しです。
その最初を飾るのは、彼らが解散して10年後に発売されたディスコ・ブームの際の記念碑的なレコードです。
従来の33回転のLPではなく、シングル盤と同様の45回転で長尺の音楽を高音質で再現した画期的な企画でした。
凄腕のスタジオ・ミュージシャンたちを招集したこのプロジェクト、彼らの名曲を見事に料理して世界的大ヒット。
前説はこれ位にして、まずは彼らの名曲メドレー早速 お聴きください。
彼らの天才ぶり、名曲ぶりが、あらためて再認識されることと思います。

スターズ・オン・ビートルズ45(メドレー)1981年
Stars On Beatles 45

ビートルズの一部楽曲群(確か計31曲だったかな?)、もう圧巻ですね。
ジョンとポールのレノン・マッカートニー名義による作品群、ジョージによる作品など、それらのどれもが絶品です。
これだけ忠実にコピーしつつ、無理の無いようスムーズにアレンジするには多くの労力を要したことと思います。
彼らのヒット曲の一部、21世紀の今聞いても超新鮮ですね。
正に前世期(!)を筆頭にて代表する音楽家たちです。


さて、あらためて

「ビートルズこそが、我らの永遠のアイドルでショー!」

ここから本番!どうぞ!

世界中には20世紀の今もなお無数のビートルズ・ファンがおり、彼らのコピー・バンドも同様に数多く存在します。
彼らの曲のコピーを趣味で始め、結果 プロのバンドとしてデビューを果たしたコピー・バンドもまた多く存在します。
自らが彼らの熱烈なファンでありながら、そんな彼らの代用品(!)として彼らのファンを獲得していくと言う図式です。
以下に特集した動画出演の音楽家たちは、そんなプロたちの演奏したビートルズのコピー曲のオンパレードです。

筆者が若かりし頃には、コピー・バンドはある意味 オリジナリティーに欠けた低級なバンドとの評価でした。
その理屈でいくと、古典音楽を再現するクラシックの交響楽団のほぼ全てが低級なバンドとなってしまいます。
でも時が経ち、コピー・バンドの存在は一つの立派なジャンルとして市民権を獲得するようにもなりました。
欧米では多くのビートルズのコピー・バンドが登場、彼らを懐かしむ熟年ファンや若い世代のファンも獲得、
それぞれのバンドがコピー曲を演奏しながらも、それぞれの違いをアピールすると言う状況にもなりました。
コピーが単に機械的なコピーに終わらず、演奏家の個性による解釈の違いでその結果もまた楽しんでいます。

筆者がこのコーナーで声を大にして言いたいことは、コピーとは、言うなれば個性の明示だと言うことです。
一見、矛盾しているように感じられる方も多々とは思いますが、個性を完全に否定することは不可能なのです。
コピーの過程は、自らの個性を無にして対象となる音楽にひたすら近づける作業ながら、個性の痕跡は消せません。

複数の演奏家が同じ曲のコピーをすると言う行動過程に於いて、その演奏家が何を聴き、何を感じ、何をなぞったのか、
人間一人一人の個性が違う以上、まるで同質のコピーが出来ると言うことは一部の例外を除いて極めて稀なことです。
万人共通の純粋視覚が有り得ないことと同様に、音楽聴覚もまた万人共通の厳密な聴覚など存在してはいないのです。
例えば、これは過去に於いて筆者も随分経験したことなのですが・・・、
Aさんのそれは技巧的にBさんより上ですが、感性や雰囲気はBさんの方が優れていると言うことも大いに有りなのです。
ポップ音楽やロック演奏に於いては楽譜的な音程やタイミングが正確でも、結果はまるで似て非なる物と言う事もあり、
言わば、本末転倒の「仏作って魂入れず」、「木を見て山を見ず」状態のコピー奏者も多々存在します。
そのコピーの過程を経て、それでもなお残る個性がコピーを魅力的にも、逆にその対極にもさせてしまうのです。
( 筆者の経験による私見ですが、楽譜・音符から演奏する人より、耳からコピーする人の方がより表現が豊かです。)
(筆者的に言えば)コピーとは、
言うなれば、対象となる原曲を演奏した者と、コピーを試みた者との共感コラボレーションとも言えるものです。
そう、コピ中はユニゾンで、コピー完了後の演奏開始では名代的ソロで (*^-^*)。
コピー完遂した時の喜びはこの上もなく幸せなもので、まるで演奏者の親友か愛弟子にでもなったような気分です。
また完コピ困難部は間引き等で適当にハショッて全体を我がモノにして楽しむことも良しです(後日、再挑戦も可)。
但し、完コピ目指して細かい技巧のみを追求し、根幹のビートやノリを忘れている御仁も多々いるので要注意です。
( 筆者上京当時の本土の多くのバンドがその傾向にあり、ロックのエグ味や醍醐味が感じられませんでした。御免。)
「エッ、今も!? 」( 昨今のガールズ・バンドはその限りに非ず。逆に凄いです。)(;^ω^)

さて、
それが今特集の肝の二つ目で、そこら辺の違いや個性も同時にご鑑賞いただければ、と考えています。
もちろんのこと一つ目の最も重要な肝は、彼らの紡いだ楽曲群の素晴らしさを再認識することです。😊

前説・能書き、またまた長くなってしまいました。
ファブ・フォーとはファビュラス・フォー(Fabulous Four) 素敵な4人の略で、ビートルズの4人を指し、
この人気コピー・バンドの名称としています。
偉大なるビートルズのコピー・バンド代表格。
まずはお聞き下さい。

ザ・ファブ・フォー、「究極のトリビュート・ライブ(その1)」

The Fab Four - The Ultimate Tribute (Part I)


外見をも含めたその徹底的なコピー命には敬服してしまいます。
ジョンのリッケンバッカー、ジョージのグレッチ、ポールのヘフナー・バイオリン・ベース、それらのボックス製アンプ類、
そしてリンゴでお馴染みのラディック製ブラック・オイスター・シェル柄のドラムも、もちろん髪形等もう全てが完璧です。


次のバンド「レイン」もまたそんなコピー・バンドです。
どうぞ。ご鑑賞ください。

レイン、「ビートルズ・トリビュート・バンド・ライブ」

The Rain, Beatles Tribute Band Live at Broadway


次はオランダで誕生の本格的なバンドで、今までライブで再現不可能とされたビートルズのスタジオ録音を生で果敢に再現。
今回特集では、ビートルズの傑作アルバムの一つを、A~B面を順に丸ごと全て余すとこなくライブで再現・演奏しています。
よって長尺判ですが、ご興味のある方には大変魅力的な試み・醍醐味となっています。
よろしければご覧になってください。

ザ・アナログズ(オランダ)、「ビートルズ・アルバムの一つを全曲コピー演奏」
傑作アルバム「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のフル・コピー・ライブ

 The Analogues、Sgt. Pepper's: Live in Concert、The Beatles cover


時間と資金と労力をタップリとつぎ込んだ完成度の高い凄い再現性に驚いてしまいます。
素晴らしい演奏技術に脱帽ですが、筆者的に上から目線で言えば、熱いスピリットが不足している気がします。
筆者が感じるビートルズはその熱きスピリットによる力強いビートなので、おそらくはその点が不満なのです。
感激しながらも同時の批判、平にご容赦。
_(._.)_



次の曲もそんな彼らアナログズのライブ演奏で、筆者も超大好きなビートルズ・ナンバーのメドレーです。
こちらも併せてご鑑賞ください。

ザ・アナログズ、「ゴールデン・スランバー~キャリー・ザット・ウェィト~ジ・エンド」ライブ

The Analogues , "Golden Slumbers"~" Carry That Weight "~"The End "


* * *

「最後にビートルズ・カバー曲を」

やっぱり欲張りな筆者、今回の「コピー曲特集」を進め、終わらせるつもりでいたのですが、「カバー曲」も聴きたくなりました。
今回のラストでは、数あるカバー曲の中から、イギリスの元不良少年たちの一人だった彼の歌を選びました。
ビートルズの多大な影響下で育ったイギリスのオアシス、一世を風靡した彼らもまた解散してしまいましたが、
その歌心ある数々の楽曲もまたビートルズ・ナンバー同様、後世に長く歌い継がれていくことになるでしょう。
詳細は不明ですが、英国内のスポーツの祭典時のコンサートの模様らしいです。
コピー・バンドとは一味違った、良い意味での癖のあるカバー曲、どうぞ。

ノエル・ギャラガー(元オアシス)、「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」

Noel Gallagher's HFB , " All You Need Is Love "【和訳】Live


この曲、トリを務めるには最も 相応しいナンバーなのかもしれません。


「後日・強欲・追加版」

上にて紹介の「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」、ビートルズの原曲動画も是非とも取り上げたかったのですが、
映画「レット・イット・ビー」同様の著作権の問題上、現在YouTube上には存在しないので、残念ながら断念しました。
1960年代、世界に初めて同時に衛星中継されたその映像は貴重で、若い彼らやM・ジャガー等も参加していました。

その代わりの動画と言っては何ですが、以前エリザベス女王・在位50周年を祝福する記念コンサートがありました。
筆者もかなり以前に、NHK衛星放送で流された超豪華ライブの様子をDVDに録画してあり、時々再現していますが、
その中でもフィナーレの部分がYouTube上にあったので、そのライブ映像を紹介します。
出演者は英国のみならず、米国からも大物ミュージシャンらが参加しており、2度は再現できない超々豪華ショーです。
上のノエル・ギャラガー動画が「欲張り」な筆者の追加版だったので、今回は更にその上を行く「強欲版」としました。

「毒を食らわば皿まで」の諺にて、お楽しみいただければ幸いです。
動画下に、参加・超豪華ミュージシャン陣の名前を貼っておきます。
映像のステージ上から探し出すのも一興です。
あなたは一体 何人ご存じなのでしょうか?
あなたは一体 何人探し出せますでしょうか?

ポール・マッカートニー、ジョー・コッカ―、ロッド・スチュアート他、
「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」バッキンガム宮殿ライブ

Paul McCartney, Joe Cocker, Eric Clapton & Rod Stewart ” All You Need Is Love ” (LIVE)

The concert was held on 3 June 2002, Buckingham Palace Garden, London, England


Paul McCartney, Bryan Adams, Queen, Elton John, Shirley Bassey, Eric Clapton, Joe Cocker, Phil Collins, Ray Cooper,
Ray Davies, Dame Edna Everage, Tony Iommi, Tom Jones, Ladysmith Black Mambazo, Annie Lennox, Ricky Martin,
Ozzy Osbourne, Rod Stewart, Tony Bennett, Blue, Emma Bunton, Atomic Kitten, The Corrs, Cliff Richard, S Club 7,
Will Young, Ruby Wax, Brian Wilson, Steve Winwood and Tony Vincent.

圧巻!


今回の「ビートルズ・コピー・バンド特集」、いかがでしたか?
今となっては再現不可能な彼らの魅力がより伝わったことと思います。
冒頭・動画でのポールのあどけなさの残る表情から50数年、そのポールが今も現役なのが嬉しい限りです。
良き相棒だったジョンもジョージも先立ってしまいましたが、これからもずっと輝き続けてほしいものです。

* * *

「筆者の脱線・昔話」

筆者も中学時代にビートルズの楽曲と本格的に出会い(小学生時代はダンス音楽との認識で踊っていました)、
彼らのコピー(ドラムやギター)を始め、彼らの魅力と、再現コピーの難しさを実感しました。
彼らの楽曲の魅力は何と言ってもそのメロディー・ラインの美しさにあり、コーラスもまた然り、
4人編成のシンプルな編成とは言え、レコーディングには色々な仕掛けと工夫が内在しており、
単にエレキ・ギターだけでは再現不可能で、12弦ギターやアコースティック・ギター等が多用され、
そして何よりジョンとポールの音域広く力強いボーカルやコーラスが近寄り難い霊峰のようでした。
中期以降の楽曲ではこれらの仕掛けが更に発展、金管や鍵盤、テープの逆回転や二重録音が加わり、
中~高校生の筆者らの技術や知識では到底及ばないと言う、もうお手上げ状態・ダルマ状態でした。
そんな筆者高校時代のベトナム戦争泥沼化の当時、
沖縄中部の基地の街コザには、荒くれ米兵を相手に夜毎演奏を繰り広げる地元のバンドが群雄割拠していました。
中でも「キャナビス」「紫」「コンディション・グリーン」のビッグ・スリーは、若き米兵達に圧倒的人気でした。
キャナビスが那覇でコンサートを演った際、多くの米兵達も追っかけで駆け付け、会場はさながら米国のようでした。
そのライブでビートルズの「バック・イン・ザ・USSR」「レディー・マドンナ」「ヘルター・スケルター」等が演られ、
その圧巻へビー&スリリング・サウンドに、コザ方面より駆け付けた米兵らが発狂したかのように絶叫していました。
筆者も当然その圧倒的音圧を浴び、目前のキャナビスの凄さとビートルズのロック魂の熱さに心底 酔い痴れたものです。
その際のキャナビスの圧巻演奏、筆者もその後、上京後も多くの外タレ・コンサートにも多数 足を運びましたが、
生のロック演奏としては、これ以上の圧倒的音圧のスピード感やスリル感を未だに経験したことがありません。
英語放送局所属の米国人関係者らが舞台正面で大きなオープン・リールのテープレコーダーを回していたので、
故郷の何処かか、又は米国の関係者が今も保存しているかもしれず、それを聴いてみたいと今も思っています。
そんな彼らも数年後に本土デビュー、所属事務所の意向で流行りのウェスト・コースト風に変身、落胆しました。
圧巻ボーカルのジ三―さんも抜け、東京ナイズされた音には当時の野性味も消え、まるで別バンドのようでした。
沖縄ロックのビッグ・スリー、全てデビューしたものの皆一様にサウンドを歪曲され、彼ら自身 失望してました。
何れのバンドも、当時の音楽業界のドンの圧力による様々な妨害やツブシに遭ったと異口同音に嘆いていました。
当時、爆発的に人気を獲得しはじめたオキナワ・ロックの本土上陸・台頭を快く思わなかった御仁がいたのです。
保身ゆえか、ビートルズのように新人や後進を積極的に支援するような度量は持ち合わせていなかったようです。
( ;∀;)
歓喜に沸いた若い米兵たち、戦地へと向かう彼らを待ち受けていたのは、一体どんな未来だったのでしょうか?

脱線 またまた長くなりましたが、筆者自身の昔話に戻すと、
ストーンズやツェッぺリン、クリーム、グランド・ファンク等に混じって、ビートルズもよく聴き、
彼らの中期頃の傑作アルバム「ラバーソウル」や「リボルバー」等は、中~高校時に愛聴しました。
中でも彼らの2枚組アルバム「ホワイト・アルバム」は、嗜好の好みを超越した至高の存在でした。
また彼ら晩年の「サージャント」や「アビイロード」や「レット・イット・ビー」も激聴しました。
ある時はステレオの大音響に身を包まれ、また時にはヘッドフォンで目を閉じてトリップしました。
勿論、地元ビッグ・スリー・バンドらによるコピー曲・カバー曲の迫力ある演奏も時に楽しみました。
そうして時が経ち、
これらの楽曲は半世紀も経た今でも未だ筆者の愛聴盤で、CDではなくレコード盤に針を落として観賞、
未だに新しい発見や気づきがあり、新たな活力を覚醒させ、新鮮さを失うことなく輝き続けています。
彼らの生まれ育った英国の地の真逆の南の小島で育った筆者、彼らの音楽との出会いは最大の喜びで、
最大の幸せです。
最大の感謝です。

( この特集を、筆者と共に高2の1年間ビートルズ・ナンバーを共に堪能した内間正文君に捧げます。)
( 彼の非凡でクリーンなポール似の歌声は、筆者の脳裏にて今も新鮮に鳴り響いています。今頃どこに?)
( ;∀;)
  支離滅裂:脱線昔話、ご容赦

*

この特集が、僅かでも誰かのビートルズとの出会いや再認識の契機になれたのなら、この上ない喜びと幸いです。

「ビートルズこそが、我らの永遠のアイドルでショー!」


またまた長くなってしまいました。
 これにて御開き!

 " All Need Is You Love " 
  By Lennon , McCartney


There are so many their sweet music on our lifetime.
Their beautiful and pure spirits still exist in our heart.
(*^-^*)
Japanese English  By T講師

2019年7月20日土曜日

夏休みのアトリエ、オープン日

「子供たち、夏休みに突入」

市内の小学校、週末に修業式があり、夏休みに突入しました。
それに伴い、学童クラブの方も来週から早朝迎えが始まります。

「お知らせ:夏休みのアトリエ、オープン日」


夏休み期間中のアトリエ・オープン日は下記のとおりです。

7月は20日(土)、21日(日)、27(土)、28日(日)の4日間、
8~9月は3日(土)、4日(日)、24日(土)、25日(日)、31日(土)、1日(日)

の6日間で、合計10回です。


学童クラブの最多忙期間でもあり、また中旬にはアトリエ・学童クラブのお盆休みもあり、
上記のようなスケジュールとさせていただきます。
( 注:上記はキッズ・クラスのオープン日にて、成人クラスはその限りではありません。)

夏休みの宿題の課題ポスターや自由画を製作する際は、早めの来訪・ご予約をお勧めします。
完成に至らない場合は8月末の平日来訪も可能ですが、学童クラブ・メンバーと同室となります。
訪問可能日は相談の上、対応させていただきます。
ご理解のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

みんなの情熱による力作の誕生、期待しています。
(*^-^*)

アトリエ・マイルストン主宰:当真 英樹


2019年7月15日月曜日

ビートルズがアイドルでショー!

月曜日・連日の雨( ;∀;)、気温低し
国民の休日「海の日」
アトリエ3連休の最終日

もはや音楽ブログと化してしまった昨今の当アトリエ・ブログ、
新たな映像(授業風景やその完成作品)の投稿が不可能につき、
今回もまた音楽ブログとして投稿いたしました。ご了承下さい。

「ミュージック・ギャラリー(その367)」


「ビートルズこそがアイドルでショー!」


ここ数日、アイドルの生みの親の訃報に関してのTV情報が氾濫しています。
その時事ネタに筆者なりに思うことが契機となり、今回の特集となりました。

「ビートルズと言うアイドルたち」

ロック歴(聴取歴&演奏歴)半世紀(!)に渡る筆者とは言え、ビートルズの第1世代とは言えません。
そんなロック・ファン半世紀を誇る筆者がビートルズを初めて聴いたのが、小学5年生の時でした。
当時の3~4歳上のネーネーやニーニーらの噂話を耳にして、凄いグループが外国にいることを知り、
件の彼らは「長髪の4人組」でその髪の毛を振り乱して「大音量にてアップテンポの音楽」を奏で、
その音楽を生で聴いた女の子たちが、興奮のあまりに「絶叫して気絶してしまう」とのことでした。
小学生の筆者にはまるで理解し難い現象ながら、程なくして彼らの音楽に接することになりました。

那覇に波の上と言う海岸があり、その堤防部分には海上に突き出た形の数軒のボートハウスが在り、
それら全ての店頭デッキには当時に大流行していた大型の立派なジュークボックスが設置されており、
泳ぎやボート遊びでやってきた若者(主に中高生)や、仕事明けの米兵らで大いに賑わっていました。
海が、泳ぎが恋しくなった夏休みも直前の頃、小5の筆者はそんなボートハウスの1軒にやって来て、
ジュークボックス前でタムロしていた3~4人連れの若い私服米兵の選んだ1曲に衝撃を受けました。
曲が始まるや否やレコードをかけた米兵らが大きな体を揺すって踊り出し、自ら大きな声を張り上げ、
海からの柱で支えられた木製デッキを激しく揺らし、ジュークボックスのレコード針を飛ばす勢いで、
その大音量・アップテンポの今まで聴いたことのない音楽を、それこそ身体中にて堪能していました。
それが筆者のビートルズの音楽との最初の出会いでした。
その後、この曲を何度聴き、それをバックに何度踊ったのか不明なくらい、そこかしこで聴き重ねました。
( 小学生でモンキー・ダンスを、中学時代には件のボートハウスや海上で立ち泳ぎゴーゴーを踊りました。)
その当時の小中学生の持ち金ではジュークボックス料金は安くはなく、もちろんシングル・レコードも然り。
( シングル盤は筆者・中1の時、友人よりジャケット無し中古を25セントで購入しました。新品は1ドル。)

前置き、懲りずに、またまた長くなってしまいました。
ちなみにビートルズのスペルは、BEAT(ビート)とBeetle(カブト虫)の彼らなりの造語です。
世界中の若者たちを瞬く間に虜にした世界初のアイドル「ビートルズ」のご機嫌な1曲を。
映像は彼らが武者修行時代に世話になった地、ドイツはハンブルグでの凱旋公演の様子です。
ステージ後方でウロウロのネクタイ白シャツ姿の関係者おじさんたちが、多少目障りですが、
 " Let's, Rock'n' Roll ! "

ザ・ビートルズ、「ロック・アンド・ロール・ミュージック」(1964年、チャック・ベリーのカバー曲)
THE BEATLES, " Rock And Roll Music (1964)" Composed by Chuck Berry(1957)

ジョンのカッコ良いボーカルのバックで、ご機嫌にはじけているピアノを弾いているのはポールです。
小5の筆者、ビートルズのこの曲と共に、ポップスのビートにも初めて出会ったような気がします。
その頃、筆者が聴いていたのは兄や従姉妹の影響でフォークの「ピーター、ポール&マリー」でした。
筆者が真にロックに目覚めたのは、中1のストーンズの「サティスファクション」との出会いでした。
ちなみに、
彼らの影響と、米国のエレキ・インスト・バンドのベンチャーズで我が国にもエレキ・ブームが勃発!
多くの中高校生が不良少年・少女呼ばわり(半分は真実・半分は嘘)され、家族との軋轢を生みました。
全国的エレキ・ブームはやがて多くのグループ・サウンズを輩出し、多くのスターを誕生させました。

* * *

1964年1月、フランス公演
同年2月、アメリカに初進出
ワシントン・コロシアムを皮切りに、クラシック界の殿堂カーネギー・ホールにても初公演
人気TV番組エド・サリバン・ショーに2度出演。その際の放映が全米TV史上の最高視聴率を記録。
レコード売り上げによる全米ヒット・チャート1~5位を独占。
同年6月~、デンマーク、オランダ、(英領)香港、オーストラリア、ニュージーランド等の世界公演。
その間にも数々の前人未到の驚異的レコード・セールスを記録、
シングル盤の「抱きしめたい」は1200万枚以上を売り上げる。
外貨獲得の貢献で、エリザベス女王よりMBE勲章を授与される。
等々・・・
その他、各種の既存記録をどんどん更新し続け、ビートルズの4人は時代と世界の寵児となりました。
以下、そのライブ演奏と映像、お楽しみいただければ幸いです。
その当時、P.Aシステムやモニター等も未発達の状況下での熱演です。

ザ・ビートルズ、初期(デビュー2年後)のライブ(イギリス・ロンドン)
THE BEATLES, New Musical Express Show Live (1964)

00:47 She Loves You 03:02 You Can't Do That 05:57 Twist And Shout 08:55  Long Tall Sally 11:20 Can't Buy Me Love

彼らの初期サウンドの特徴の一つでもある、ジョージによるリッケンバッカ―製12弦ギターもオブリ等で活用されて見事です。
プチ自慢かもですが、筆者も同モデルの国産コピー品を所有。コンパクトなヘッドが12弦には見えず、バランスが秀逸です。


さてお次はアメリカでの伝説のライブの様子です。
ビートルズのイギリス国内での人気が決定的なものとなり、その評価が大西洋を渡って本場の米国に飛び火。
十代の女性を中心として着火・点火した炎は見る見る大きく燃え盛り、やがて爆発的な人気を獲得します。
以下の動画は、そんな公演中の演奏録音や映像をコラージュした総集編の一部ですが、ご覧いただければ。
彼らのその当時の演奏っぷり(比較的・良音質)とファンたちの熱狂ぶりが垣間見える仕上がりとなっています。

THE BEATLES  American Tour (3/4), Summer, 1964, 
"Can't Buy Me Love", "If I Fell", "Hold Your Hand", "Boys"


どんどん、行きましょう。(P.C上でいつでもこれらの動画が見られるなんて、良い時代です!)
その当時、野球場(スタジアム)を使用しての大掛かりな公演など存在しない時代のエポック・メイキングな出来事でした。
英国よりやって来たビートルズを一目見ようと米国全土から駆け付けた観客の数、実に5万5千人以上だったとのこと。
そんな彼らと観客らの様子を生々しく伝える伝説のシーンが繰り広げられます。音質悪くもカラー映像でご堪能ください。

ザ・ビートルズ、「シェイ・スタジアムに於ける伝説のライブ」(1965年)
THE BEATLES , Live at Shea Stadium, New York, U.S.A (1965) ,FULL CONCERT

筆者の高校時代に噂では聞いていた「伝説のライブ」映像、正に「お宝」です。
当時のN.Y.の摩天楼や、アメリカのティーン・エイジャー達の服装や髪形など、とても興味深い記録です。
筆者が小~中学生だった頃、故郷に大勢いたアメリカン・スクールの子らと被っているのが感慨深いです。
彼らの演奏中、ステージ脇で見守るマネージャー、・ブライアン・エプスタインのどや顔も印象的です。
どこの公演会場でも規制する側の警察官が付き物で、既存社会の象徴のようにも見えて、面白いですね。

SET LIST
"Twist and Shout" "She's a Woman" "I Feel Fine" "Dizzy Miss Lizzy" "Ticket to Ride" "Everybody's Trying to Be My Baby" Can't Buy Me Love" "Baby's in Black" "Act Naturally" "A Hard Day's Night" "Help!"

一言、圧巻です!
彼らの魅力をいち早く見い出した世界のビートル・マニア(そう呼びます)な女子たち、
彼女たちの多くがローティーン(小中学生)に見えますね。親御さんらも彼女らの熱病に心労多かったかもしれませんね。



さてお次はチョイ出しの細切れ映像集ですが、貴重な我が国でのライブの動画です。
来日した際の彼らの諸々の情報も、南小島の筆者の故郷にも熱く伝わってきました。
アトリエ生徒のHT(東京出身)さん、この貴重なライブを生体験されたとのこと。羨ましい限りです。
そんな幸せな体験者、知人に他にも少数いましたが、彼らが言うには「物凄い歓声で何も聞こえなかった」との事。
でも数ある外国音楽家のよるライブ体験の中でも、ダントツのインパクトであったと異口同音に語っていました。
「いやはや何とも羨ましい~!」


ザ・ビートルズ、「ライブ・イン・ジャパン(武道館)」(1966年6~7月、計5回公演)
THE BEATLES LIVE IN JAPAN (at Budokan)

セット・リストは後ほど追ってアップします。


「アイドルからアーチストへ」

デビューから6年、
彼らの立身出世の大きな立役者の一人である彼らのマネージャーであるブライアン・エプスタインが急死します。
デビュー前の不良風革ジャン姿の彼らを、初期イメージである清潔な背広姿や演奏後のお辞儀などは彼の発案です。
通常の凡庸なタレント軍団ならば、ここで動揺・混乱し、活動も尻すぼみになりそうなものですが・・・、
しかし彼らは違いました。
ビートルズのメンバー4人は、敏腕マネージャーとして辣腕を振るった彼の活動形態や影響をことごとく排除し、
同年、コンサート・ツアーに明け暮れた活動形態を止め、自分たちの欲する音楽に専念することになりました。
中期と言われるその時期に於いて、彼らはひたすらレコーディングに没頭、数多くの傑作を生み出していきます。
今でこそ多重録音が定石になる以前の不便な時代に果敢にあらゆる方法に挑戦し、現在に繋がる基礎を築きます。
やがて自らのレコード会社を設立し、自分たちだけの作品のみならず、新人の発掘や支援も積極的に行いました。
音楽家としての才能はありながらも、商業的・経営的には素人のような彼ら、やがて経営は窮地に立たされます。
但し、しかし、
破滅に近い状態に追い込まれながらも、それでもなお彼らがこの上もなく幸運だったのは一人の男の存在であり、
その彼こそが「5人目のビートルズ」、もしくは「影のビートルズ」と言わしめる程の輝く才能の固まりであり、
彼らの良き理解者でもあるジョージ・マーチンの尽力が陰に日向に彼らの音楽活動を支え、結実させてゆきます。
「ペニーレーン」のピッコロ・トランペット、「イン・マイ・ライフ」のチェンバロ風ピアノ等、極上の歌心です。
マーチンは彼らがチャンプルーした料理を更に美しく盛って飾り、永遠の新鮮な息吹きと彩りを付加しています。
彼がビートルズに成した様々な有形無形の功績は、驚くほど偉大です。

↑上記、
「アイドルからアーチストへ」とのタイトルにしましたが、
元々のアーチストだった彼らがアイドルにもなったのです。
その彼らが「アイドル」と言う衣装を脱ぎ捨てて、元に戻ったと言うのが正しい解釈かもしれません。
以下は、そんな彼らのグループ(バンド)としての帰結です。

* * *

68年、ポールはメンバーが再び結束することを願い、様々な仕掛けやアプローチを試みます。
ドキュメンタリー映画製作もその一つで、レコーディングのためのアレンジや演奏等のスタジオ・ワークを撮影、
加えてその過程で誕生した楽曲をレコード化すると言うのが当初の目論見でした。が結果、うまくいかず、
逆に気持ちのすれ違いや小競り合いや、様々な内紛の様子が露わとなり、結束には程遠い結果となりました。
動画は、映画「レット・イット・ビー」でクライマックス・シーンとなる屋上での彼らの最後のギグの様子です。

世界のアイドルから、自己探求のアーチストへと変貌を遂げた彼らの自信に満ち溢れた潔い風貌が頼もしいです。
また演奏の方も、大ベテランとなった彼らならではの、力の抜けたルーズでユッタリな後乗りビートが快感です。

ザ・ビートルズ、「アップル・レコード本社屋上に於けるゲット・バック・セッション」
The Beatles - Apple Rooftop Concert (1969) Full Video
Get Back, Don't Let Me Down, I've Gotta Feelin',One After 99, Dig A Pony, Get Back #2

ポールの「再生」を図ったこの試みは失敗に終わり、1970年、ビートルズは正式に解散を発表します。
アイドルとしてのビートルズを脱ぎ捨てて、更にアーチストとしてのビートルズをも脱ぎ終えた彼ら、
それぞれが我が道を進み、多くの名曲を再び生み出しましたが、グループならではの醍醐味は薄れ、
結局、彼ら自らの意思と手で産み出した奇跡的存在であったビートルズの勢いを超えることはなく、
時代は移れど、彼らの残した多大な功績を後継者たちは授かり、カバー曲もまた日々進行形で誕生、
彼らが産んだ多くの楽曲が全人類的財産として、21世紀の今日も人々の心を豊かに幸福にしています。
(*^-^*)

* * *

「巻末特別篇」


上の「レット・イット・ビー」のライブ映像で彼らの特集の有終の美を飾ってもらいたかったのですが、
やはり欲張りな筆者、いつもの欲張りぶりが結局出てしまい、この動画をも取り上げてしまいました。
米国のケネディー・センターで行われたポール・マッカ―トニー名誉賞・顕彰式コンサートの模様です。
世界に多大な影響を与えた芸術家を表彰する催しで、過去にはレッド・ツェッぺリンや小澤征爾なども。
楽曲の一部にビートルズ解散後のウイングス時代の曲も含まれていますが、併せてご鑑賞ください。
階上の貴賓席にはご本人のポールや、現役時代のオバマ大統領夫妻ら お歴々の顔も並んでいます。
感動の名演奏オンパレードです。

「ポール・マッカートニー顕彰式コンサート」、於:ケネディー・センター(ワシントンD.C.)

SET LIST

7:50 - Hello Goodbye / Penny Lane (No Doubt) 10:22 - Maybe I'm Amazed (Dave Grohl & Norah Jones) 12:56 - She Came In Through The Bathroom Window / Golden Slumbers / Carry That Weight / The End (Steven Tyler) 17:02 - Let It Be / Hey Jude (James Taylor & Mavis Staples)

歴史に「イフ(もしも)」はありませんが、本来なら「レノン・マッカートニー」名義での受賞であればと痛感します。
中でも特に圧巻なのは、やはり永遠のロッカー、S・タイラーによる筆者も超大好きなアビイロードB面メドレーです。
ゲスト・ミュージシャンたちの素晴らしいパフォーマンスに、あらためてビートルズの偉大さを再認識させられます。
ジョン&ジョージの冥福を祈らざるを得ません。加えて彼らの名お産婆さんジョージ・マーチン氏の冥福をも・・・。

*

「筆者、脱線話」

もはや前世期の遠い過去となってしまったビートルズのアイドル時代のお宝映像を特集させていただきました。
筆者の中~高校時代に彼らの曲を多数レパートリーに加えていました。初期の「マネー」に始まり、
「ユー・キャント・ドゥー・ザット」等、晩年の「ゲット・バック」「レット・イット・ビー」等々。
筆者・高2の頃に組んだバンドのリード・ボーカルのU君がポール似で、しかも歌声もそっくりでした。
ところが演奏の方のフル・コピーを試みるとこれが異常に難しく、彼らの凄味・非凡さがより理解でき、
満足できる結果(カバー曲演奏として)は生み出せず、「様になる」や「絵にする」には至難の業でした。
( その中で、特にあのシンプル極まる「アンド・アイ・ラブ・ハー」、彼らならではの乾いた表現世界。
アマ・プロ問わず、他の世界中のバンドや歌手ですら甘くなり過ぎて、彼らの超俗ぶりを心底実感。)
歌唱力抜群のU君も1年後にグループを脱退。多くのビートルズ・レパートリーを失ってしまいました。
( ;∀;)

相変わらずの支離滅裂、ご容赦。


* * * * * * *

「筆者後記:アイドルに寄せて」


今を去ること30年程前のバブル景気 華やかなりし頃、都心は青山のとある画廊のオープニング・パーティーでの事、
筆者が中学時代に周囲の女子たちに絶大な人気を誇っていた4人組アイドル・グループの一人に会ったことがあり、
その彼は人気者の一人で、クラスの女子らが彼のプロマイドを定期入れに大事に入れていたのを思い出しました。
彼が一世を風靡し元アイドルだと言うことに気がついた人は、企画関係者以外にはほとんどいませんでした。
付き人と共にCDを手売りする姿を見て、アイドルと言う存在が幻想の産物に過ぎないことを実感した次第です。
そんな幻想は本人が創ったものではなく、所属事務所の商業的意図とファンの人たちの集団催眠的心理に依り、
同時に中央のテレビ局の圧倒的な顔出し出演により、彼らの音楽が全国・自動的に大ヒットしてしまいます。
アイドルらの全てを否定する気は毛頭なくも、こと音楽に関しては低レベルで、CDも利益追求の一手段です。
十代や二十代など、若い人々の所有する時間も情熱も、小遣い等のCD購入の資金もまた当然限られています。
そんな状況下、サイン会や握手会の参加特権をエサに、同じCDを何百枚も購入させるような悪徳商法も登場、
お金を積みさえすれば、他者よりも優位性が得られると言うような価値観や風潮にも嫌悪感しか残りません。
同枚数なら、古今東西の素晴らしい感性と個性を発見・聴取する方がベターで、自らの人生も豊かになります。
同じアイドルでも、
自作の詞曲・衣装やキャラ付けや宣伝・ライブの企画等々、全て自ら行う地下アイドルの方が尊い気がします。

我が国の「アイドル」たち、映画の役者やバラエティー番組のタレントとしての存在は頑としてあるにせよ、
こと音楽に関して彼らの才能はあまり褒められた状況ではなく、テレビの音楽番組を学芸会風に下げています。
彼らの露出度が群を抜いていると言うことは、裏を返せば逆に音楽的才能に恵まれた人々の出演の機会を奪い、
全国的認知度や人気獲得ひいては人気上昇のためのプロモーションの機会も与えられていないと言う証しです。
当然なことを言えば、音楽は音楽そのもの(楽曲や歌唱や編曲・演奏等)でこそ成立して欲しいと痛感します。
「イケメン」とか「可愛い」とか外見的な要素を全否定せずも、少なくとも付随要素であってほしいものです。
本質的な音楽自体が軽んじられ付随要素こそが勝り、大手を振る我が国の芸能界・音楽界に呆れ果てています。
実力や才能がありながらもテレビに露出の機会を持たない音楽家たちは多く、理不尽さや無情を感じています。
現在、テレビ界には多くの偏向が散見され、一部芸人(と呼べない下品芸)や大手のタレントらのみが偏重され、
また音楽番組にも関わらず、人気があるとの理由でアイドルらが優遇され、無名に近い新人たちの起用がなく、
またそれら発掘するコーナーをも持たない構成や、世界的に通用する音楽家らを育てないのも残念な現状です。
真に音楽家としての優れた楽曲が放映されない地上波テレビ界に、筆者は暗澹たる思いに陥ってしまうのです。

救いがあるのはインターネットの存在で、地上波ではけっして登場しない音楽家たちの楽曲を耳にする機会があり、
そこから新しい才能や豊かな感性が旅立ち、多くの聴衆の耳に届くことは良いことで、そこに期待するものです。

この特集を企て編集している最中に、
何と偶然にも大手芸能事務所による独占禁止法違反事案が、NHKテレビの緊急速報のテロップで流され、
その直後のニュース・ウォッチ9では、冒頭にて公正取引委員会による「注意」を受けたとの報道があり、
筆者的には甘いなと感じつつも、「我が意を得たり」とばかりに、多少は溜飲を下げることとなりました。
但し、
この事案の当事者の片方である圧力をかけられた側の民放各社、翌日も何事もなかったかのようでした。
「エッ、その後も・・・?全然 !? マジ !?」
「圧力」とは、何も恫喝や強要とかだけではなく、便宜の供与や贈収賄などの犯罪案件をも含まれます。
テレビ界もまた多くのマスメディア同様「報道する自由、しない自由」を口実に、口をつぐむようです。
さすが積年に渡る超偏向業界、どうやら根深さ闇深さ筋金入りのようで、自浄能力 まるでなさそうです。
汚れ歪んだ自尊心なき忖度天国。
( ;∀;)



今回もまた前回と同様に長い長~い特集となりました。(-_-;)
最後までいお付き合いいただいた方がおりましたら、心より感謝申し上げます。
つまみ食いウォッチながらでも、彼らのライブに触れられた方々にも感謝です。
梅雨時のじめじめした時節、多少なりとも楽しんでいただけたのなら筆者的には幸いです。
ご訪問、ありがとうございました。
_(._.)_

By T講師

* * *

「投稿遅延について」

今週半ばには、当特集をアップするつもりでいたのですが・・・、
皆様も既にご存じの先日の京都での大惨事の悲報があり、しばらくの間、当ブログのアップを控えていました。
当アトリエ生徒 兼 クラブ・スタッフのYYさんも大好きな「京都アニメーション」の惨事に衝撃を受けています。
筆者もまたそれなりの動揺があり、当特集アップを手控えていましたが、ここは考え直してアップを行いました。
衝撃深く平常心に戻るには余りにも時期尚早なれど、僅かでも皆様の気分転換の足しになれば・・・。

多くの犠牲者のご冥福や、ご遺族の心身の平癒や、ご負傷された皆様のご回復を祈るばかりです。
筆者も大好きな京都の皆様や、ファンの皆様、全国の皆様、全世界の皆様が、いつの日か共に立ち直れますように・・・。
合掌

当真英樹

芸術は、平和の希求と同義語・・・。
対義語は、破壊・暴力・争い・・・。
人類属性の永劫なるその憎悪カルマにジョン・レノンも命を奪われ、今、京アニの人々もまた・・・。
やりきれない感情と、思考停止の日々・・・。