アトリエ・マイルストンブログ

2019年7月29日月曜日

祝・梅雨明けの沖縄ロック特集

月曜日・輝く快晴
アトリエ定休日
学童クラブ夏休みシフトの2週目

関東・甲信越地方の「梅雨明け宣言」が気象庁より発表されました。
今朝の眩しく輝く青い空を見て、長く暗く低温続きだった今年の梅雨がやっと明けたことを実感。
暑さに慣れぬ身体のままとは言え、頭上に輝く白銀雲はやっぱり良いものです。
V (^^) V

その流れで行くと、今日から本格的な「夏!」。
その流れを進めると、熱き日々にはやっぱり「ロック!」
熱きロックと言えば、やっぱり故郷のこの彼らでしょう!
と言うことで、今回の特集を早々と決めることが出来ました。
以下、お付き合いいただければ幸いです。

「 後日加筆のお知らせ 」
筆者の脱線昔話エピソードを、C・グリーンの記述の末尾近くに加えました。
心温まる内容だと思います。ご興味にある方、よろしければお読みください。


「ミュージック・ギャラリー(その369)」


「祝・梅雨明けの熱きオキナワン・ロック特集」


  Rainy season’s over today!

" LEGENDARY OKINAWAN ROCK BANDS SPECIAL ! "


2週に渡る筆者なりの「ビートルズ特集」、お楽しみいただけましたでしょうか?
2週目は、若かりし頃の筆者の経験や視点で「コピー・バンド」にこだわって編集してみました。
時折混ぜた筆者の「脱線昔話」と、今日の夏本番の青空が契機となり、今回の特集を組みました。
筆者、成人式を3度経験するほどの高齢者(当の本人にその自覚なし)ですが、「夏」と言えば、
「ロックでしょう~!」
と未だに、即座に条件反射をしてしまう程の若き頃からの単純な性格のままなようです。

そのロックと言えば、やっぱり原体験したオキナワン・ロックのスピリットこそが夏本番始まりの合図と化しています。
今回はそんな遠き過去に於いて筆者の原点となった故郷オキナワのロックの一部をYouTube上よりお借りしました。
嫌いな方には嫌いな「熱々ロックのエグ味」、お付き合いいただければ幸いです。
夏はアイスや冷そうめん等に限ると言われる方々、レッド・ホット・チリ・ペッパーな辛みでタップリ汗をかいて、
暑い夏にノックアウトされずに、暑い夏をこそノックアウトしてください。
「乗り切ろう」なんて受け身じゃダメ。「夏情緒を思い切り堪能しよう!」で行ってみましょう。
ロック嫌いな方々にとっては単なる騒音&雄叫び(-_-;)、どうぞ。
( ヘッドフォンまたは外部スピーカー接続にて、加えて大音量!で お楽しみください。)

* * *

オキナワン・ロック特集、そのトップ・バッターを飾るのは、ワイルドなパフォーマンスでならした伝説の彼らです。
では早速、露払いならぬ「梅雨払い」と参りましょう。
満を持しての登場、「いざ!」

コンディション・グリーン、「ハート・テイカ―(ビジネス・センター通りにて)」
Condition Green, " Heart Taker (On B.C. Street) " vocal by Kachyan (1977)

スタジオ録音盤とは言え、熱々さが「夏本番!」を感じさせてくれる熱演です。
コンディション・グリーンの特徴を決定づける七色夢幻ギターのシンキは正しく天才です。
彼らのバンド名は米軍の発令する「非常事態警報」を意味し、彼らにはピッタリな名前です。
彼らの狂気とも思えるワイルドさをレコードの溝に押し込めるのは無理なようですが、それでもその片鱗は刻まれています。
ベトナム戦争激化当時の在沖の数多くの荒くれ米海兵隊の兵士たちに圧倒的な人気を誇った彼らの本土デビュー盤の1曲目です。
そのメジャー・デビュー前、彼らの狂気・極上のライブを筆者も現地のクラブや野外フェスにて幾度も体験しました。
そのインパクトは既成ロックのライブの枠を超え、演奏とパフォーマンスの混在した唯一無比の圧倒的存在でした。

上の曲は、彼らの根城のオキナワはコザ(現・沖縄市)の歓楽街での女性との出会いを歌ったもので、リアルです。
この男女の出会いのドラマには続きがあり、同デビュー・アルバムの2曲目に入っていて下がその物語の続きです。


コンディション・グリーン、「ハート・ブレイカー(キャノン・クラブにて)」
Condition Green, " Heart Breaker ( at Canon Club )" ,vocal by Kachyan (1977)


前半・後半が劇的に分かれた構成ですが、詞の内容が分かると、この曲の展開がより一層魅力的なものとなります。
副題のキャノン・クラブは彼らの出演していた店で、やはり上の曲と同様にビジネス・センター通りにありました。
要約すると、恋人となった女性がいるものの、派手な世界に群がる異性も多く、浮気で恋人を失ってしまう話です。
前半部最後の" someday you will suffer like me (あんたもいつかそうなるのよ)" は、捨てられた恋人の捨て台詞で、
その女性風な言葉はギタリストのシンキが女性を演じて呟いており、この別れのドラマを一層 盛り上げています。
哀愁漂うマイナー調の後半部は、恋人を捨てた男の懺悔と一種の居直りを同時に歌っていて超リアルな劇世界です。
現地での米兵が観客のステージでは寸劇も取り入れていて、詞の内容も大切にする彼らの世界観が垣間見られます。
それにしてもシンキの七色夢幻ギターの歌心、その豊かさ、逞しさ、繊細さ、哀しさ、もう絶品・天下一品です。


3曲目の次の曲もまたドラマ仕立てです。
基地の街で育った男の、子供の頃の悲しい思い出を淡々と発露していて、筆者の胸に迫ります。

コンディション・グリーン、「チャイルド・オブ・イノセント」
Condition Green , " Child Of Innocent "  vocal by Tahke (1977)


詞の要約は、父のいない男の子が、生活の糧を得るために夜毎 自らの身体を売る母の様子を描いたショッキングな世界です。
「子供の頃は毎日が日曜日みたいで楽しかったし、そんな母のお金で買ったお菓子がやけに美味しかった」とも歌っています。
歌はデビュー時に在籍していたターケと言うドラマーで、メンバー全員が歌えると言うのが彼らの魅力であり、強みでした。
お金がないと食べてゆけない我が身や社会を嘆き、「マネー(お金)」だけが全て、お金が欲しいとひたすら呟いています。
当時の基地経済の街、オキナワならではの現実の悲痛が理解でき、借り物ではない彼ら独自の視線に尊敬を覚えたものです。
「マネ~ッ」と呟く中間部以降リフレインのドラム・タムとベースの重いフレ―ジングが織りなすアンサンブルが超絶品です。
ギター表現に関してはもはや言葉なく、これを天才の成せる技と感性と言わずして何を語ろうと言うのかレベルのお宝です。

*

さて、スタジオ録音盤3曲目(最後)を飾るのは、彼らの野太いビートが充満したラテン・ロックなナンバーです。
以前に当ブログの筆者のT講師コーナーで取り上げたので今回で2回目ですが、その重厚な貫禄、お聞き下さい。
歌うはこれまた天才的ベーシストの故エディ―で、歌もまた国内では比肩できない程の色気魅力の持ち主です。
多重録音の無いトリオ編成+コンガだけによるスタジオ一発録りの妙味が貴重です、しかとご堪能ください。

コンディション・グリーン、「シュガー・ベイビー・グッド・タイム」
Condition Green, " Sugar Baby Good Time " vocal by Eddie (1977)

リード・ボーカル兼メイン・パフォーマーのカッチャン、ここではコンガを叩いています。
もちろんの事、ここでもまた天才ギタリスト、シンキのギターが縦横無尽に歌っています。
この曲だけ、投稿動画の音源がレコードなので、彼らの実際の生サウンドに極めて近いです。



さて最後は、彼らのライブ・パフォーマンスの貴重な映像で締めくくりたいと思います。
本土デビュー後、ドラマーが悦さんに変わっているので、1年目あたりの映像だと思われます。
地元に於ける彼らのパフォーマンスに最も近い映像で圧巻です。
但し、東京のおとなしい観客を前に彼らもまた少々緊張気味です。
説明は不要ですね。彼らの全盛期の勇姿、とくとご鑑賞ください。

タイトル:「昔 沖縄には Condition Green いう凄いバンドがいた。」

テレビ東京の音楽番組「ジュン・サウンド・クリエーション」に於けるスタジオ・ライブ(於:東京)
Condition Green, studio live at TV Tokyo , 1978(?)

音質・映像共に劣化しながらも、今となってはとても貴重な映像です。
彼ら全員の溢れんばかりの比類なきショーマンシップ・ミュージャンシップが、燦然と輝いています。
彼らの当時のパフォーマンスの片鱗が垣間見れ、最後の方が切れているのが惜しいですが、投稿者様には大感謝です。

今振り返って見ると、個性的で非凡な面々が1グループに揃っただけでも奇跡的で、運命のいたずらに感謝する今日この頃です。
そんな彼らを本土マスコミの一部は「いかもの・げてものの類」の単なるコピー・バンドとして記述、下げたりもしていました。
彼らより1年前にデビューをした「紫」と共に、沖縄ロックは本土でも市民権を得、一躍 爆発的な人気を博すようになりました。

*

そんな彼らがメジャー(東京)デビューして間もない頃、
国連のジャパン・イヤーの際(年に1か国を選出)に、日本代表としてオキナワ・ロックの彼らと紫が選出されました。
その当時の並みいる音楽家のレコードを基に選定が行われたとのことですが、選考委員の耳が確かだったのでしょう。
紫は辞退するも、コンディションの面々は我が国代表として太平洋を渡り、ロックの本場へ御礼参りを果たしました。
彼らはN.Y.で絶賛され、評判を聞いたディズニーランドやL.A.の著名な老舗ライブハウスからもオファーが舞い込み、
ディズニーランドでの様子は、半円形舞台上の人間タワー中の彼らと、周りを埋める数多くの肩車姿の親子連れが写っており、
パフォーマンス後は、舞台前に多くの観客たちが駆け寄り、彼らを握手攻めにする親子の微笑ましい様子が写っていました。
記事には、こんなにご機嫌なバンドはこちらにもいないので、是非ともアメリカに移住して下さい、と切望されたとのことです。
現在は廃刊となったロック音楽雑誌ですが、今となっては貴重な資料なので、若い頃に熟慮なく廃棄したことが今は悔やまれます。
また多くのV.I.Pたちが訪れることでも知られるライブハウス「ウィスキー・ア・ゴーゴー」でのパフォーマンスも絶賛を浴び、
ライブを見たキッスのメンバーの何人かやギタリストのあのスティービー・レイボーンらの知己を得たとも聞き及んでいます。
その縁もあって、キッスの来日時公演の前座(オープニング・アクト)の指名がキッス本人らサイドからあったとのことですが、
受け入れ日本側のプロモーター側の反対(その噂の有力な物には圧力説もあり)に遭って、残念ながら現実化はしませんでした。
更に付け加えるならば、
生前、テンガロン・ハットとハッピ姿が定番だったS.レイボーンは、シンキの姿からインスパイヤされたとの説もあります。

しかし、地元沖縄では米兵を中心に圧倒的人気を誇った彼らの本土での人気は以外にも長くは続きませんでした。
東京デビューの際のコンサート(中野サンプラザ)には大勢の観客が詰めかけたものの、満を持したはずのパフォーマンスが不発、
その初回の失敗の影響はとても大きく、2回目のコンサートは「名誉挽回」とばかりに素晴らしい演奏内容だったものの、
初回公演に失望した観客らの足は戻らず、期待大きく鳴り物入りでデビューを果たした彼ら、早々と失速してしまいました。
そして1年後に発売された2枚目のアルバムのサウンドもまた彼らの従来のサウンドにはほど遠く、更なる失望を買いました。

彼らのその狂気溢れるステージには彼らなりのそれなりの理由があり、戦地へと赴き、2度と還って来れない兵士たちのため、
可能な限りの最大のショーマンシップにて、明日をも知れぬ彼らの旅立ちを見送りたいとの気持ちもあったと聞いています。
高校生の筆者もそんな若い米兵たちに囲まれ、汗まみれながら、彼らの極上パフォーマンスを心ゆくまで堪能したものです。
先程まで筆者の傍らで絶叫していたガタイの大きな若い米兵たちの目に浮かぶ感涙の光を見たことも度々あり、
彼らのはなむけの音楽と大きく豊かな心意気は、米兵達の胸にもしっかりと届き理解し、焼き付いていた訳です。
オキナワでの最後の夜を、彼らの演奏で締めくくったと言う兵士たちも数多くいたとのことも聞き及んでいます。
戦地で使うお金や場所はない!とばかりに、貰ったばかりの給料を全て使い切り、ばらまいた輩も多数と聞いています。

半世紀を経た今ですら、彼らの英語スペルのタイトル動画では、米国本土より数多くのコメントが投稿されています。
"absolutely(全くの、完璧な、究極の) crazy"はこの場合は尊称で、親しみと尊敬を込めてそう語られている彼らです。
その証しの1つに半世紀後の今日に、愛息を連れて彼らに会いに訪れる元米兵もいて、旧交を温めているとの事です。



米国本土からの新兵たちだけではなく、ベトナムの地にて戦闘を経験した一時休暇中のすさんだ米兵たちも多数混在していて、
はじめは怖さを感じていた米兵たちでしたが、ステージの彼らが我々少数の現地ファンを丁重におもんばかってくれ、
演奏の合間には、緊張気味の筆者らの前にやって来ては肩に手を置き、一服の煙を吐き出しながら、こう言うのです。
「アッセ、シワサンケー、アッターン・イッタート イヌムンドゥヤンド―、ターチミーチワービヌ・イナカーターテー。」
(心配無用よ~。彼らもあんたらと同じよ。2~3歳ばかり上の田舎っぺ達なんだよ~)と言い、また肩を2~3度 叩き直すのです。
酔客によるトラブル発生を事前を察知して「彼らに手を出すと、俺らが承知しないぞ」と時折警告を発してもくれました。
彼らが酔った米兵に殴られたと言うような事も一切なく、逆に演奏後は「俺に肩車させてくれ」と迫られてもいました。
また悪酔いしている暴力的になった兵士には、周囲にいる彼らのファンらが酔客兵士の悪態を積極的にいさめてもいました。
リーダーのカッチャンは沖縄ロック界の父親的存在で、その人間力は多くの米国人たちにも慕われていることで判ります。

筆者の経験を少々記すと、70年代後期に彼らの肖像を撮影したことがあり、度々彼らのライブハウスへ足を運びました。
目的も達し、撮影の御礼と離沖の挨拶に顔を出すと、その日クーラーで冷え冷えの広い店内は誰も居ずの閑古鳥でした。
「ダァー、今日は誰も来ないねぇ~。店のシャッター降ろしてこようねぇ~。たまにはこんな日もあるわけよ。」
彼らは演奏をやめて、筆者と助手の義弟を相手にユンタク(おしゃべり)休憩でも取るのかとでも思いきや、違いました。
たった二人だけの筆者らを相手にいつものような熱演を延々と披露。しかもその上、あの人間四重タワーまでをも披露。
筆者らは感動の余り、ビールを給仕してくれた彼らの恋人の米人女性の手酌を受けながらも涙を流してしまいました。
クーラーで冷えた店内にステージ照明、バンド・メンバー4名にウェィトレス役をしてくれた2人を合わせた計6名で、
いつもと何一つ変わることないような自然な振る舞いで、ビール2本注文のたった2人のためにやってのけたのです。
その筆者ら2人の完全貸切状態の演奏も、手抜き等と言う言葉は彼らにはさも存在しないかのような熱演だったのです。
しかも「リクエスト大会にするから何でも言って!」てことで、筆者の大好きな彼らの得意ナンバーを所望しました。
そんな沖縄のロック・バンド、仕事柄 彼らのレパートリーは平均でも常時で実に200曲余にものぼるとのことでした。
別れ際に真相判明、初めから店の看板は消えていて、しかもCLOSEDの札もそのまんまだったと言うとんだ笑い話でした。
「やっぱり沖縄は良いでしょう~?今度はいつ帰って来るねえ~?その時は水釜に一緒にダイビング行こうねぇ~。」
それから程なくして潜水中に俘虜の事故で亡くなってしまったエディーさんと交わした最後の別れの言葉でした。合掌。

つい先日、日テレの番組でビギンが出ていて、その中で随分と歳取ったパパ・カッチャンの姿を目にしました。
最新に近い動画では、さすがに声が出なくなっていたようなので、時の流れを感ぜずにはいられませんでした。
今年はコザの彼の店に足を運んで、是非にでもお会いしに行こうと心に誓いました。
またコザの歓楽街、まだまだ危険なイメージがありますが、訪沖の際には彼の店にも足を運んでみてください。
絶対お会いする価値のある人間力の持ち主です。きっとギラついた優しい目で歓迎してくれること請け合いです。
カッチャンの店(沖縄市中央)の名前は「ジャック・ナスティー」。きっと素晴らしい夜になることでしょう。
カッチャンの温かい人柄に加えて、あの天才ギタリスト・シンキの神技プレーにも出会えるかもしれませんよ。
(*^-^*)

またまた脱線昔話が長くなりそうなのでここら辺でやめておきますが、最後に一つだけ付け加えるのならば、
また基地の街・コザの歓楽街には、米国本土同様の人種差別的区画・区域が暗黙のうちに頑と分けられており、
その領域に進入でもしようものなら、袋だたきに遭うこともしばしばだったそうですが、彼らがそれを覆しました。
彼らの根城のクラブが積極的に人種の混合を許容し、その見えざる壁を打ち破っていったのも彼らの功績の一つです。
また米軍や兵士らの度重なる暴挙で、暗く沈んでいたオキナワ住民(まだ県民とは呼べない時代)や若者たちの心の中に、
何らかの実力さえあれば、彼らと対等、もしくはそれ以上の尊敬を勝ち取ることが出来るのだと言う自信を獲得させ、
米国に対するコンプレックスの固まりだった当時の多くの若者たちに希望と勇気を与えてくれたことも重要な事柄で、
政治家や行政の努力だけでは成し得ない米軍人との交流を目の当たりに見せつけたと言うことも彼らの大きな功績です。

* * *

「 筆者によるインタリュード(中間部) 解説 」


祖国復帰前・米軍施政下のオキナワはベトナム戦争激化の影響で、後方支援の重要な兵站基地としての機能が強化されており、
それに伴う米国4軍(陸・海・空・海兵隊)兵士や軍属その関係者がおり、現在の比にはならないほどの米国人が溢れていました。
そのような背景の下、基地を多く抱えた本島中部の街を中心に多くの軍関係者需要を満たすため、歓楽街も未曾有の活況を呈し、
ロック音楽を聞かせるライブハウスも乱立。遠くフィリピンや本土からも多数のロック・バンドが来沖、その需要を満たしました。
地元のバンドも多数が集合離散を繰り返しながら、群雄割拠の状態にて夜の歓楽街にロックの強烈サウンドを炸裂させていました。
更なる客引きのためか、通りに面したドアや地下の通路からは、エコーがかかった大音響があちらこちらでコダマしていました。

そんな状況下、米兵達に圧倒的支持を得ていたのは地元のバンドたちであり、ブリティッシュ・ロックからアメリカン・ロックまで、
幅広くこなす技術と力量と柔軟性があり、若き米兵達の求めに応じて新旧様々なリクエストを如才なくこなしていたものです。
数多く来沖したフィリピン・バンドの面々も、その歴史(スペインや米国統治)やラテン的な性質上、豊かな音楽的才能に恵まれ、
サンタナなどのラテン物には長けていましたが、半面ブリティッシュ・ロックやハード・ロック系の曲にはある種の甘美さが残り、
若い米兵たちからは人気がなく、本土出身バンドも良く言えば端正な演奏スタイルで、米兵たちの欲求不満を募らせていました。

様々な理由による集合離散を繰り返した結果、地元バンドにはいつの間にやらビッグ・スリーと言われるような存在が確立され、
コザ(主に空軍)や金武(キン、海兵隊)や那覇(空・海軍)各地のライブ・ハウスにて米兵相手に八面六臂の大活躍をしていました。
ビッグ・スリーの他にも「寿(ことぶき)」「サジタリアス」「メデュ―サ」等 多数がおり、それぞれがしのぎを削っていました。
少し解説しますが、海兵隊は語尾に隊とあるので、多くの日本国民は陸・海・空の3軍よりも小規模のものだと思いがちですが、
この「海兵隊」の存在こそが米国軍隊の中心であり、肝心要(かなめ)であり、それが世界最強と言われる軍隊を形作っています。
陸・海・空の全ての戦力を所有し、海外での不安定要素があれば、真っ先に出動・展開し、戦闘を開始する最強の精鋭部隊です。
また戦地へと出世した兵士達の一時休暇の地でもあったオキナワは、心がささくれた米兵による凶悪犯罪にも悩まされましたが、
地元のロッカーたちは当時 米国本土で流行っていたラブ・アンド・ピースのヒッピー精神を仕事現場で実践し、融和を進めました。

そんなロッカーの彼ら、
人々に危険と思われ敬遠されていた米兵街に敢えて足を踏み入れる地元の若者(筆者らも含む)らを快く歓迎・庇護してくれました。
単なる職業としてだけに留まらない彼らは、往々にして人種的偏見を持つ者の多い米国の兵士たちの支持と尊敬を集めていったのです。
そんな彼らの全盛期の収入は莫大な数字にのぼり、琉球政府の長である主席の給料を軽く何倍も上回るほどの金額を稼いでいました。
そんな結果で、彼ら自身がライブハウスのオーナーとなり、当然 店内の音響設備にも高額な投資を行い、理想的な環境を築きました。
下世話な話が続きますが、その一環で、みかじめ料を請求するヤクザの干渉とも戦い、従来の不可侵システムをも破壊していきました。
成人式を3度も迎えて超えた筆者、その今でさえ彼らのその優しさや温かさを想い返す時、胸と目頭がぐっと熱くなってくるのです。

* * *

さて次は3大バンドの2グループ目の登場です。
残念ながらビッグ・スリーの一角を成す「キャナビス」に関しては、YouTube上には映像動画なく、今回は残念ながら断念しました。
キャナビスは、オキナワの誇る名ギタリスト糸数ガンジー擁するハードロック・バンドで、そのスリリングな演奏は絶品でした。
ジェームズ・ギャングやグランド・ファンク等、骨太なアメリカン・バンドを彷彿とさせ、本場の米国人らにも絶賛されていました。

何代かのメンバー・チェンジがあるものの、糸数ガンジーは不動で、その超絶スライド・ギターに惹きつけられていたファン多数です。
そのキャナビス、本土デビューはビッグ・スリーの中では最も遅く、そのせいか流行変遷への時代対応を事務所側に迫られたようで、
グループ名も「サンディエゴ」とウェスト・コースト風に改名し、サウンドの方もワイルドさを払拭して洗練されてしまいました。
今回はキャナビス全盛期のメンバーではありませんが、サンディエゴ名義アルバムの中の1曲をお借りしてきました。
リード・ボーカルのジ三―さんも抜け、往時の勢いやワイルドさこそありませんが、その片鱗だけでもお聴きください。
腰のある粘りは健在で、初代キャナビスの要石、重戦車ドラムのチビ(宮永英一)さんがリード・ボーカルを務めています。

サンディエゴ、「ペニー」
San Diego (Their old name " Cannabis") , "Penny " (live)

筆者、往時のキャナビスの大ファンだっただけに、どこのバンドだかまるで分からないバンド名に大いに落胆・失望したものです。
そうとは言え、彼らの東京でのコンサートやライブ等にも幾度か足を運びましたが、その気持ちには複雑なものが多々ありました。
イーグルズやドゥービーらの西海岸サウンドが巷で流行ってきたとは言え、自分らの姿勢や持ち味までそのイメージに沿わされて、
メジャー(東京)・デビューを果たした彼らを応援しつつも、心の底では筆者の知る彼らではない無念さをも同時に抱えていました。

そんな忸怩(じくじ)たる思いの筆者、そこで妙案を思いつきました。
これは立派な反則技とは自覚しつつ、敢えてそうさせていただきます。

(キャナビス見立ての)グランド・ファンク・レイルロード、「ミスター・リムジン・ドライバー」
Grand Funk Railroad , " Mr, Limousine Driver ",( instead as Cannabis)

ロック・バンド最小編成(トリオ)による粘っこい後ノリ・ビートの醍醐味が超快感です。典型的アメリカン・バンド。
キャナビスはギターが2人、よってグランド・ファンクのこの録音盤を正しく再現。否、生ゆえ、それ以上の迫力でした。
筆者のバンドもツイン・ギターだったのでキャナビスは極上の師匠で、彼らのパワーとビート目指して筋トレの思い出も。
彼ら同様の粘りヘビー・ビートが欲しくて、既成ハイハットの音質に飽き足らず、より大サイズのクラッシュ2枚を使用、
太く重いスティックにて、8ビートの打撃を横殴りにして粘りを得ました。シャット時のエアー吐き出し時も快感でした。
また大小2枚のシンバルにも無数の鋲が付いた後付けのアタッチメントをセット、音量とサスティーンを稼ぎ出しました。

同じく、
(キャナビス見立ての)ザ・ビートルズ、「バック・イン・ザ・U.S.S.R」
THE BEATLES , " Back In The U.S.S.R " ( instead as Cannabis)

イントロのドラム&ベースが刻む力強いビートを聴いただけで、筆者・身体中の血が騒ぎ興奮マックスになったものです。
この疾走感、堪りません。筆者にはもうビートルズではなく、キャナビスの彼らが演っているような錯覚に襲われてしまいます。
その他にもジェームズ・ギャングのファンク49や、ツェッぺリンの移民の歌、クリームのスリーピー・タイム・タイム等々・・・、
キャナビスの生演奏と歌はコピーバンドの域を超えて、さも彼ら自身が生み出したオリジナルであるかのように聴こえたものです。

基地の街・米兵相手の街コザで成功をおさめた彼らの那覇での凱旋コンサートがあり、筆者も胸躍らせ足を運びました。
会場には予想をはるかに超えた米兵らが集結していて驚きましたが、彼らのパワフルな演奏にはもっと驚いてしまいました。
ステージ脇に高く積まれたPA用の巨大スピーカーのフロント・ロード部分に上半身を突っ込み、忘我の境地に浸る若き兵士等々、
彼らの満身を使った狂喜乱舞ぶりには筆者らも唖然とするしか術はなく、その純粋な素直さが逆に羨ましくもなりました。
2時間超にも及ぶコンサートが、たったの2~30分ほどで終了したかのような、ワープ風な錯覚に捉われたものでした。
彼らの原曲レコードをも超える迫力と力強いビートとスリル感に高校生の筆者、身体の芯までシビレきっていました。(*^-^*)
彼らとの出会いは筆者のロック魂をより強固なものに増幅、更にバンドに精進、勉学そっちのけの親不幸息子と化していきました。
筆者にとってロック・バンドとは「キャナビス」彼らのことであり、そのサウンドとスピリットは今世紀の今も鮮やかに蘇ります。

* * *

さて今回特集のトリを務めていただくのは、本土デビューで最も認知度と人気の高かった横綱バンドの登場です。
その名も「紫」、命名は彼らがリスペクトする英国のディープ・パープルからその名前を貰ってきています。
他にもピンク・フロイドやキング・クリムゾン、ユーライヤヒープ等、名だたる難曲も見事に再現していました。
彼らの東京初上陸の際には、ええっ日本にこんなにたくさんの外国人がいるの?と言うほど多くの外国人の姿が、
そして彼らの噂は遠く欧州にも口コミ飛び火、ネットのない当時では記録的なレコード・セールスを記録しました。

まずは彼らの本土デビュー・アルバムから、そのオープニングを飾る曲をどうぞ。

紫(むらさき)、「ドゥー・ホワット・ユー・ウォント」
Murasaki , " Do What You Want " (1976)

彼らの圧倒的技量によるオリジナル、今聞いても新鮮で彼らの音楽家能力の高さがあらためて再認識できます。
「好きなことをやれ!やりたいことをやれ!自分だけの路を進め!」彼ららしい力強いメッセージが熱いです。



今回、当時の貴重な沖縄・那覇でのライブ映像が入手できましたので、YouTube上よりお借りしてきました。
当時のビデオ・テープ撮影なので一部に映像・音響の乱れがありますが、この時点でのデジタル化は最善です。
那覇市内でのコンサートの模様、観客層が盛り上がってはいませんが、彼らの演奏がしっかりと聞けます。
昭和の時代に米英より入って来たロック音楽が、日本国内に定着しているのか筆者には判断不能ですが、
少なくとも彼らの演奏には借り物ではない独自性もあって、その能力には他の追随を許さないものがあり、
21世紀の今日においても彼らを凌ぐバンドの出現は無く、今もなお圧倒的力量による存在感は色褪せません。

紫(MURASAKI)、那覇市豊見城城址公園に於けるライブ
オリジナル4曲メドレー

上の「ドゥー・ホワット・ユー・ウォント」がやはりオープ二ングを飾っていました。
最後、4曲目の「Maze」途中で残念にもテープが途切れていて欲求不満になりますが、続きは下の動画で・・・。

紫、「メイズ(迷宮)」インストルメンタル
MUrasaki, " Maze ",Instrumental, From Murasaki's debut album (Way back in 1975).

圧巻!けだし荘厳



さて最後は比較的新しい動画をフィナーレとしてお借りしました。
一世を風靡したオキナワン・ロック、何も過去のものではありません。
故郷沖縄で彼らは自分自身の活動拠点を見い出し、今世紀の今も新しい熱きロック旋風を奏で続けています。
東京を中心とする地上波マスコミの情報には上がりませんが、その地道な活動は新たな若い世代のファンをも獲得。
コンサートの際には国内本土はおろか、外国からのコアなファンも会場へ駆け付けてくれています。

okinawa rock_8 紫~MURASAKI~

復帰40周年記念ロックの日スペシャル~オキナワンロック・過去から未来へ~ 「OKINAWA ROCK WILL NEVER DIE」2012.6.9[SAT]

素晴らしい圧巻のライブ・アクトです。重厚なボトムによる粘りあるビート、ベテランの彼らならではの成熟世界です。
特に中盤からのモンスター~マザーネイチャーズ・プライト・メドレー以降のインプロ等が重戦車のような横綱ぶりです。
オリジナル・メンバーの比嘉清正さんと下地行夫さんが、良い歳の重ね方をしたらしく一段と味わい深いお顔になりました。
両者のツイン・リード・ギターも益々円熟味を増し、艶やかで伸びやかなサウンドにナチュラル・トリップが加速されます。
ハモンド&レスリー巧者のジョージさんのスリリング&リリカル・メロディーも益々冴えていて老いなど微塵もありません。
チビ(とそのまま呼んでくれと言われ、尊称の「さん」を付けると、頭にオも付けそうなのでとの理由。宮永英一さん)は、
我が国の並み居るドラマー界に於いて、「パワー」「パッション」「テクニック」の3拍子が揃った最も卓抜した演奏家です。
彼の演奏は、レッド・ツェぺリンの重戦車ドラマー、ジョン・ボーナムの熱きスピリットを最も感じさせてくれるドラマーです。
筆者、幸いにも高校時代より知己を得、彼の音楽に対する真摯な姿勢や情熱など、その影響には計りしれないものがあります。
加えて、その気さくな性格に根ざした豊かな人間性で、琉球太鼓などの指導活動も行い、今も多くの若者たちを育てています。
後年(70年代後半)、写真展を企てていた筆者、彼や紫のメンバー等の肖像も撮らせていただいたこともあり、感謝の一言です。
_(._.)_
( いずれ当ブログ上にて、彼らのその際の肖像写真を投稿したいと願っているも、この調子だと一体いつになるのでしょうか?)
( ;∀;)
新生「紫」Members:
Guitars - Yukio "GG" Shimoji, 下地行夫(オリジナル・メンバー) Vocals - Hiroto "JJ" Arasaki, 新崎ヒロト (通称JJ, 筆者漢字不詳) Drums - Chibi (Eiichi Miyanaga) ,宮永英一(オリジナル・メンバー) Keyboards - George Murasaki,ジョージ紫(オリジナル・メンバー) Guitars -Keith - (Kiyomasa Higa) ,比嘉清正(オリジナル・メンバー) Bass - Chris Teruya, クリス照屋

彼らの更なる活躍、期待したいものです。
今度の帰郷の際は、是非とも彼らとの再会をと目論んでいます。
以前、撮影しながらもプリントに回せなかった彼らの若き日の写真を手土産に・・・。

故郷・沖縄のオキナワン・ロックのバンドの皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします。
「 二へ―デービル(感謝)」

To All Member of Okinawan Rock Band.

" I hope your health and lot of happiness."
" You were always No.1, and still keep No.1 to me,
 even now."
"So long, and See you again !"
"So many Thanks."

Japanese English By Hideki "Hicky" Toma
from Kanagawa,  so far away from you.

* * *

「オキナワン・ロック特集の終わりに寄せて」

以上、オキナワン・ロックのビッグ・スリー・バンド(一部に代用品あり)の動画をお届けしました。

かつて筆者のヒーローだったビッグ・スリーの彼ら、その寿命を縮めたのは意外にもメジャー・デビューがその契機となりました。
レコードも発売されたものの、業界的な契約上の不満はいずれのバンドにもあったようで自らの楽曲の音質でさえ自由に出来ず、
歌いたくもない日本語の恋愛曲を出すようにも説得されたりしたとのことで、そんなことだったら沖縄で自由気ままにしたい。と、
彼らはさっさと東京基準(価値観)に見切りをつけ、本土的な名声を得ることに終止符を打ち、自らの地へと戻っていきました。
復帰前の故郷を訪れたロック・ファンらによる自然発生的な評価が大きな評判となり、彼らも本土デビューを果たしましたが、
その最盛期は短く、また過去にあったグルーサウンズの隆盛とその急速な没落のストーリー同様に彼らもその運命をなぞりました。
「出る釘は打たれる」「持ち上げては、落とす」のは業界の常・・・。本土進出後の彼らを取り巻く状況の潮目が急激に変わり、
本土マスコミや音楽業界は彼らを正しく理解・受容せず、まるで手の平を返したようにその多くが逆の言動をすら取り始めました。
曰く、C・グリーンはジ三・ヘンドリックスの単なるコピー・バンド、紫はディープ・パープルの単なるコピー・バンド云々・・・。
彼らのオリジナルはその単なる焼き直し云々・・・。ではその当時、彼らを超えるだけのオリジナリティー豊かなバンドがいたか?
彼らのように欧米のロック・ファンから支持され得る英語詞で勝負できるロック・バンドが果たして国内に存在したのでしょうか?
「贔屓の引き倒し」を敢えて行いますが・・・、まずロック音楽の根幹である力強いビートの出せるロック・バンドなど皆無でした。
筆者、上京後に数多くの有名人気バンドのライブを経験しましたが、その多くが器用さに長けてビートに乏しいのが大方の傾向でした。
当時、国内在住の欧米出身の外国人の多くが例外的に支持・認めていたのがロック・バンドとしてのオキナワン・ロックの彼らでした。
だからこそ、その口コミ評判が米国やヨーロッパの国々での異例なほどの記録的なレコード・セールスやライブ動員に繋がったのです。
それにもかかわらず、本土マスコミや既存の音楽業界は彼らを認めるどころか、彼らの台頭を妨害し、誹謗中傷し、葬り去ったのです。

以下は噂の域を脱しない話ですが、とある音楽界のドンが自らの保身のため、沖縄ロックの面々をツブシにかかったとの事でした。
「日本のNo.1、最高のロック・バンドの登場」をキャッチフレーズに、自らのバンドにて来沖・野外公演経験のあるそのドン、
初陣の演奏に観客の米兵らから失望の大ブーイングが湧き起こり、前座の地元バンドに即替われと総スカン喰ったそうな・・・。
米国人の国民性は我々とは違いエンターテインメントに厳しく、良い物・そうでない物に明確に意思表示する気風を持っています。
その野外公演の際の前座を務めていたのが、今回のオキナワン・ロック・ビッグ・スリーの本土デビュー前のあるグループでした。
( ;∀;)
( 後年、同様なことが繰り返され、やはり故郷出身の男性ボーカル・ダンス・グループが業界内で干されたことがありました。)
( 様々な利害関係が発生・交錯する自由競争社会や業界に於いては、表沙汰には出来ない裏工作もまた自由に成されるのです。)

彼らが本土の音楽界から姿を消しておよそ40年、その間にも多くのロック(と言われる)バンドが登場、メジャーとなりました。
がしかし、彼らの後を継ぐような本物のロック・サウンドを奏で生み出すバンドの登場は、筆者的には見られませんでした。
ロックが根付いたと言われて久しい国内の音楽界ですが、彼らのパワー&ビートによるサウンドに包まれて育った筆者には、
その言説に素直に賛成できるものではなく、ロック・ミュージックの基準の曖昧さ・甘さをつくづく感じずにはいられません。
国内の多くのバンドは、ロック・バンド同様の楽器編成にて、ビートレスで演奏する歌謡曲の1ジャンルだと感じています。
黒人音楽を根幹にした米英のロックの持つある種いかがわしい程の色気をも感じさせる国内バンドに未だゆきあたりません。
身体を張って、その奥底から流れ出てくる借り物ではない力強いビートとサウンドに、筆者は未だ遭遇できてはいません。

彼らの動画のコメント欄にもありましたが、
こうして振り返ってみると、彼らが本土で活躍できた70年代後半が我が国のロックが世界水準に最も近づいた瞬間かもしれません。
歴史にIfは存在しませんが、本土の音楽界がオキナワン・ロックの彼らと、もし共存できたなら、お互いが刺激し合い、切磋琢磨し、
音楽性の向上を互いに目指していたのならば、我が国のロック界は現在よりももっと国際的な存在になっていたのかもしれません。
当時、商業的な勝敗は決着したかもしれませんが、文化的側面の視点では、それは後退を意味したように筆者には思えてなりません。
( 筆者の上から目線、贔屓の引き倒しの独断的・辛口批評にて、否定・批判・反発・反論は甘受します。)

オキナワ・ロックの彼らの英語スペル・タイトルの動画には、今もなお進行形で多くの外国人らが賛辞のコメントを寄せています。
世界と直接繋がれるインターネット時代、本物は国境・言葉を超え探し出され認められる、表現者にとって良い時代となりました。
ロックの先祖・米英の音楽界と互角に競合し、彼らの度肝を抜くビートフルな国内バンドの登場を願いつつ、今回特集を終わります。
お付き合いいただいた方々、感謝いたします。
_(._.)_

* * *


今回もまた今までに劣らずの重量級となってしまいました。

以前(2017年5月)、筆者の「T講師コーナー」にて「沖縄復帰特集」の中で、彼ら沖縄ロックも取り上げました。
今回の楽曲とは一部重複していますが、筆者撮影の彼らの写真をはじめ、その当時を知る映像資料が満載です。
御関心のある方は、ついでにお立ち寄りください。↙印、下のタイトル、クリックすればそこへリンクします。


2017/05/15

他にも本土復帰前のオキナワの色々な写真資料が満載です。ご覧になっていただければ幸いです。
(*^-^*)



今回もまた記したいこと多過ぎて、結果 やはり支離滅裂となってしまいました。
推敲無しの文章・内容で申し訳ありませんでしたが、お楽しみいただけたのなら幸いです。
_(._.)_

半世紀程も前の大昔のローカル・マイナー・ネタ、パスされる方々多しの筆者予想、
にもかかわらずの確信犯的な今回ブログ、さてその結果としての訪問数やいかに?

By T講師

梅雨明けと共に猛暑を呼び込む太平洋高気圧が列島に覆いかぶさってきています。
特に暑さには慣れてはいない今年の夏始まり、熱中症には充分気を付けましょう。
充分な水分と睡眠、お互い心がけましょう。



「P.S.:追記」

一足先に「梅雨明け」した故郷・沖縄・・・。
今頃、夏盛りの本番「エイサー祭り」に向けて、県内各地の辻々では各種の太鼓が高らかに鳴り響いていることと思います。
手首の強力スナップで鋭く打ち鳴らす太鼓の低周波と若者たちの気合かけの高周波とが入り混じって闇を切り裂いている頃。
汗が飛び散り、涙が滲み、声が涸れ、血に染まる手。不覚にも本番直前の故障に泣く者も少なからず・・・。いるんです。

そう言えば、そんなエイサー太鼓もロックと同様の力強いビートが命。
それは演る者・踊る者の力強き心臓の鼓動ビート。とは生命のビート。
命の鼓動の、躍動する喜びのビート。他者をも巻き込む魔法のビート。
ロックと同様の原初の胸騒ぎ。どおりで胸高鳴り、共に血騒ぐわけだ。
それを故郷ではチム(肝)・ドンドンと言う。
歳など関係なく、いつまでもチムドンドンする自分であり、日々でありたいと思う。

な~んちゃって(;^ω^)

By T講師