アトリエ・マイルストンブログ

2020年5月25日月曜日

去りゆく5月の爽やかな風たち

月曜日・快晴
相変わらず充実したストレス・フリーな日々を満喫しています。
各種の木工作業や庭仕事での肉体労働にて、瞬間寝落ちの日々。
おかげでブログ編集の時間が見いだせず、定番の投稿時差です。
ご容赦。

5都道府県の「非常事態宣言」解除さる


国民の自主性に任せた7週間に渡る自粛期間が今月末を待たずに解除されました。
我が神奈川県が少々足を引っ張っている感もありますが、取りあえず一安心です。
短期的完全収束が望めない以上、一刻も早い経済的復活が最優先事項の急務です。

「命」も「暮らし」も共に守るため、今後も「3密」に気を付けつつ頑張りましょう。
(*^^)v

* * *

「祝・沖縄祖国復帰特集(その2)」

「沖縄祖国復帰特集」その2をアップするにあたって、筆者の中では色々な企てが同時並行して有りましたが、
それぞれのメインとなるはずの動画の大方にブロックが施されていて、特集にするには妥協と制約が多過ぎて、
結局のところ今回もまた当初の企てを貫くことが出来ずに、無念にも大幅な変更を余儀なくされてしまいました。
そこで、これまでのアプローチを一切捨てて、新たな(その2)として投稿することにしました。疲れた(´;ω;`)。

「ミュージック・ギャラリー(その416)」

「去りゆく5月の爽やかな風たち」


気がつけばもう3~40年も前の事になります。
前回特集で取り上げた故郷沖縄出身の歌手の中に、今回取り上げた三人の彼女たちも新たに加えることにしました。

まずはトップ・バッターは「麗美(れいみ又はレイミー)」さんです。
彼女の存在を見い出したのは、人気絶頂中の松任谷由実であり、名編曲者の松任谷正隆氏のご夫婦に間違いありません。
松任谷由実(以下、敬称略)はその初期に於いて、麗美を強力にプッシュし、自ら制作の作品を数多く提供していました。
ある動画のコメント欄にもありましたが、松任谷由実は彼女の中に自らの作品のリアル・ボーカロイド的要素を見い出し、
自作の完成度を高め研ぎ澄ませるために麗美に歌ってもらい、自らの歌唱には無かった世界を付加し具現化したのです。
筆者の能書き、長くなりました。

やがて来たる「梅雨」の前、爽やかな薫風を感じさせてくれる歌声たちをどうぞ。
松任谷由実 作詞作曲、松任谷正隆 編曲プロデュ―スによる麗美の歌唱、どうぞ。

麗美(レイミー)、「青春のリグレット」(1984年)

 in Second Life Suond Remixdown by Reimy Kohime


そんな彼女も三枚のアルバムを松任谷夫妻と制作しましたが、その後、自らの創作意欲にて新たな道を進み始めました。


麗美、「Two Of Us」作詞作曲:堀川麗美 (1990年頃)


曲名は「私の中の二人」みたいな意味で、自らの二面性をコミカルに歌っていて爽やかです。



麗美 reimy 、「傘はおいてませんか」とインタビュー、(1990年末頃)

作詞作曲:堀川麗美

動画末尾の本人登場のインタビュー映像も今となっては貴重です。
小振りのギター、良い音していますね。英語の自作詞・曲ももちろん良い感じで、もっと聞きたいと感じました。

麗美さんにはお姉さんがいて、初代クラリオン・ガールに抜擢されただけはある妖艶美女の堀川まゆみさんがその人です。
お姉さんも歌手ですが、その外見からモデルとして活躍。また映画の主役にも選ばれましたが直前降板して干されました。
残念。
その後、MAYUMIと改称。自作曲や他の歌手らへの楽曲提供やプロデュース等を行っているとの事です。

一方、妹の麗美はアメリカでも全曲英語詞によるアルバムも発売。1988年にはビルボード・ダンス部門で14位を記録。
93年頃からは岩井俊二監督の映画やドラマのサウンドトラック制作提供、CM等にも活動範囲を広げて活躍中との事です。
歌唱のみならず、多彩な活動を行っている彼女ですが、その独特な歌声を聴きたいと言うファンのコメントも多数です。




「ホントにホントの脱線昔話」

前回の当ブログにて「京都での修学旅行の思い出」をかいつまんで記しましたが、その際の彼H君の名前が堀川君です。
堀川の姓は、故郷の沖縄ではその大方の人々が宮古島の出身者で、美人の島としても地元では大いに知られています。
ちなみに余談も余談ですが、そのH君の妹二人もその従姉妹たちもまた目元睫毛パッチリなソース顔の美人揃いでした。
余談を更に続けますが、そのH君の奥さんは前回登場の南沙織さんのインターナショナル・スクール時代の友人でした。
筆者詳しくないのですが、おそらくその英語力からして、麗美さんもまた彼女らと同じ学校の出身者だと思われます。
また麗美も南沙織も悪友の堀川君の奥さんも共に、フィリピンとの混血で「ハーフ(半分)」ではなく「ダブル」です。

そのH君、上京中に筆者のアパートに彼女と共に一時滞在。先に島に戻った彼女恋しさにラブレターをしたためて送るも、
「良いアイデアがある!」と便箋を抜き取り香水をふりかけ投函。ポストから戻った彼、抜き取った便箋を机上で発見。
島で手紙を受け取った彼女、中身の入っていない封筒から微かに立ち上る香水の香りに、しばし唖然としたとの事です。

携帯電話のないそんな不便な時代、故郷沖縄に電話するにも莫大な数のコインが必要となり、その両替にも苦労しました。
どうしても長電話になる際には紙幣使用可能な希少な電話を求めて、わざわざ地下鉄に乗って新宿駅まで行ったものです。
内容的は親不孝を絵に描いたような若気の至りの「お金の無心」が多く、帰路の灰色の冬空に寒さが一層 増したものです。
また時に、別の情けない友人に泣く泣く頼まれて、遠距離交際中の彼女との間のケンカの仲裁を取り持ったことも・・・。
今では遠い昔日の東京暮らしでの思い出です。くだらない「ホントにホントの脱線昔話」お付き合いされた方、感謝です。
麗美さん、ごめんなさい。
折角のコーナー、汚してしまいました。
_(._.)_

* * *

以前にも当コーナーで紹介したこともありますが、その伸びやかな歌唱は一過性の流行歌で終わるには余りにも惜しい世界です。
ヒットしなかったことがとても不思議で悔やまれるとは、彼女の楽曲動画のコメントの声、今でもやはり多数に上っています。

梅雨前の薫風吹き渡るこの爽やかな季節にはぴったりな曲です。

亜波根 綾乃(あはね あやの)-「大きな風」(デビュー曲、1996年)


名前が「あはね」となっていますが、地元沖縄では通常「あはごん」と音読みの姓名です。
歌唱のみならず作詞作曲・編曲も含め完成度の高い、現在でも遜色のないスケール世界です。


2曲目もまた5月には相応しい爽やかさで、これまた素晴らしい大作です。
彼女の故郷沖縄を多分に意識した詞が、筆者の胸に迫ります。

亜波根綾乃-ひこうき雲の空の下(1997)


94年にコロムビア新人オーディションでグランプリを受賞。96年にはTV東京の「ASAYAN」では異例の12社から指名を受け、デビュー。
そんな非凡・逸材の彼女ですが世の中うまくはいかぬもの。大手芸能プロ所属歌手とは違う立ち位置にてマスメディア露出度に恵まれず、
従って大ヒットにも繋がらずに、やがてその歌手生命の命である活動も次第に鈍り、萎んでいったようです。これもまた商業主義の宿命。
自らの才能・努力だけでは報われないことも多い、この世の冷徹な条理です。
いつまでも聴かれ続けられることを・・・。

* * *

さて最後に登場は、やはり故郷沖縄が生んだこれまた世俗的名声やヒットには恵まれてはいない天才歌手の1人です。
彼女の才能を見い出したプロデューサーが特定の芸能事務所所属に反対。その影響もあってTV出演等に恵まれず。
しかし、95年のNHK新人歌謡コンテストで優勝を果たし、喜納昌吉作の「花」で第1回アジア音楽祭でも優勝。
その天空をどこまでも自由に駆け巡るような伸びやかな歌声は天性のもので、他者の追随を許さない孤高の存在です。

 石嶺聡子、「私がいる」




彼女のデビュー・出世作となった歌のCDバージョンとは違ったアレンジを2曲続けます。

石嶺聡子「花」

Harp ver. of Hana by Satoko Ishimine



石嶺聡子、「花」


「花」、一時期は歌うのは嫌だと思っていた彼女ですが、今は吹っ切れたとのことです。
数々の名誉あるコンテストで優勝実勢のある彼女、その豊かな才能は衆目の事実です。
これから先は筆者の「上から目線」で失礼ですが、彼女は多分に生真面目な性格だと思います。
聴衆の期待に応えようと日々精進し本番も大切に歌い上げていますが、芸術には遊びの部分も。
端正な部分を残しつつも原曲を尊敬しつつも、壊して遊んで自分色に染めても良いと思います。
原曲の音程も心も無視してハッチャケた彼女の姿・歌唱を体験したいのは筆者だけでしょうか。
失礼・無礼、ご容赦。
<(_ _)>

*

オリジナル・ヒットには恵まれない彼女ですが、その歌声は古今東西のカバー曲でその魅力が発揮されています。
全英語歌詞のアルバムの中から2曲を取り上げました。秀逸なシンプル・アレンジと共にお楽しみ下さい。

石嶺聡子、「ハードタイムズ・カムアゲイン・ノー・モア」

" Hard Times Come Again No More "


曲名から行くと上のタイトルがトリに良いかなとも考えましたが、筆者の最も気に入っている曲を最後にしました。

石嶺聡子、「ゼア・イズ・ナッシン・モア・トゥー・セイ」

There Is Nothing More To Say


ザ・ミレニアムのカバーですが、この歌いっぷりの表現力と完成度が素晴らしく、今回特集のトリとしました。
彼女の上の2曲が含まれるCDアルバム「洋灯(らんぷ)」"Nostalgia for tomorrow"、アマゾンで買いました。
お勧めです。

現在はシンガーソングライターとして独自の世界を地道に歌い続ける彼女、マイペースで頑張ってもらいたいです。

(*^-^*)

* * *

以上、筆者の故郷の沖縄出身の女性歌手3名の歌う楽曲の一部を紹介しました。
現在、それぞれがマスメディアでの露出がほとんどないような状況だとは思いますが、
これからも末永く、人々の耳にその爽やかで伸びやかな歌声を届けてくれることを心より願っています。
「チバリヨー!!!」

By T講師

2020年5月20日水曜日

祝・沖縄祖国復帰特集(その1)

水曜日・曇り 時々 霧雨
平年よりも低気温となりました。

一昨日(月曜日)より、自粛閉所中の学童クラブの開放要件の一部を緩和。
少数ながら新1年生らを中心に、笑顔と笑い声がマイルストンに戻って来ました。
そのエネルギーに満ち満ちた笑顔に筆者らも元気を貰え、やっぱり良いものです。
(#^^#)

*

「ミュージック・ギャラリー(その415)」
「祝・沖縄祖国復帰 特集(その1)」


1回目の今回、故郷オキナワが祖国へ復帰して「沖縄県」となる1972年前後の、オキナワ出身者の曲を集めてみました。
下にご紹介の曲以外にも紹介したい曲ありますが、YouTube上に存在しなかったり、ブロックありで断念した曲多数です。
祖国復帰前、沖縄出身の全国的有名人はごく少数で、プロ野球では広島カープで大活躍した安仁屋宗八投手くらいでした。
なので全国的に認知される歌手などの有名人が出ることは、その当時の故郷の人々にとっては誇りであり、ヒカリでした。

では早速、そんな状況下(米軍施政下)で育った歌手たちの懐かしの曲たちに行ってみましょう。

21世紀(令和)の時代、遠き昭和のこの大ヒット曲を知らない方々も多いかと思います。
戦後16年、復帰前のオキナワから初めて本土デビューを果たした女性歌手の出世作です。

仲宗根美紀、「川は流れる」1961年

「親子ラジオ」と言う米国ポップス100%の有線放送で育った筆者にとって、ラジオ放送から流れてくる邦楽が衝撃でした。
それまで慣れ親しんだ米国ポップスのきらびやかな世界とはうって変わったその暗さは、子供の筆者をも打ちのめしました。
筆者、言葉も知らぬ米国ポップスをごく自然に器楽曲として聴いていたのですが、そこに言葉の意味をも侵入してきました。
「別れ」「死」「悲しみ」と言った幼き筆者には無縁な言葉と世界が切々と歌われ、マイナーと言う和音構成も知りました。
この曲、冒頭の「病葉(わくらば)を~」の言葉からしてもう筆者には謎の世界で、当時でもその意味を知る大人も少なく、
両親にその旨・その意味を尋ねてもちゃんとした答えが貰えずに、何となくはぐらかされたような記憶があります (-_-;)。

そんな中、特に暗い曲の典型がこの曲で、イントロのマンドリンからしてもう暗い絶望世界の入り口に立たされたものです。
なので、当時はその曲がラジオから流れ出した途端に、即刻に他局へと急ぎチューニング・ダイヤルをひねったものです。

でも時が経ち歳月が流れ大人に成長した筆者の帰郷時、とある食堂のラジオからこの曲が流れ出て再びの衝撃を受けました。
タイムスリップしたようなひなびた食堂(でも美味です)によくある古い真空管ラジオのままで、選局不可なのが幸いしました。
幼き頃はただその暗さを遠ざけていた筆者ですが、この歌手の声質とその驚くべき唯一無二の表現法に突然開眼したのです。
単なるマイナーと言う曲調だけでは表現できない歌手の憂いと湿り気を帯びた声質、その独特な音程の取り方に驚きました。
言葉のラ行に乗せる巻き舌と、語尾ロングトーン時の緩やかなグライド歌唱法(上昇下降グリッサンド)が魅力で独特です。
そして詞の内容もYouTubeの動画で初めてしっかりと知り、暗さだけではない3番詞の「明日は明るく~」に救われました。
けだし昭和の世が生んだ傑作名曲。
他にも西田佐知子の「アカシアの雨に打たれて」や、「カスバの女」など多数ありますが高齢者の筆者、今や大好きです。
(#^^#)


しばらくの時を経て、ベトナム戦争激化中の騒然とした基地の島から、爽やかな歌声が登場しました。
艶やかな歌声と、長い黒髪と浅黒い肌のキラキラした笑顔が全国のアイドル・ファンを魅了しました。
( 筆者注:動画画面内の「この動画はYouTubeで御覧ください」をクリックしてご視聴下さい。)

17才(南沙織)1971年(生唄)


余談ですが、生放送のステージ後方上手に、筆者の大好きなシモンズの二人の姿も垣間見られます。



他にもヒット名曲多数あり投稿を試みましたが、著作権者によりその多くがブロックされていて断念しました。
次の曲は当時のCMで流れていたもので、大好きだった「シモンズ」判と共に心に残る柔らかな歌唱が秀逸です。

明治チェルシーの唄 南沙織


他にも「潮騒のメロディー」「色づく街」「哀愁のページ」等々の名曲多数ですが、ブロックにて転載不可。残念。
ご興味のある方はYouTubeにてトライしてみてください。
いわゆる「アイドル歌手」のジャンルながらも、その爽やかさは一過性で終わるには勿体ない世界だと思います。

「脱線昔話(その1)

実は筆者、彼女とはほんの数回の面識があります。
復帰前・デビュー前の那覇で、市内で活躍中の人気先輩バンドのコンサートで、友人らから紹介されました。
当のご本人は今や覚えていないと思いますが、市内の国場ビルで催されたロック・コンサート会場等ででした。
「今度、デビューするんだよ」との友人の言にロック漬け状態の筆者、「歌謡曲なんて」みたいな反応でした。
その後、彼女の全国デビュー直後(大ヒット連発中)には、筆者の上京後にも都内で2度ばかり遭遇しました。
当時、兄の彼女の住む東中野のマンションの一室で、兄の彼女の親友として紹介をされましたが、お辞儀のみ。
「確かどこかで会ったような?」みたいな怪訝そうな表情の彼女、「有名芸能人」としての距離を感じる筆者、
無表情・無反応のままにて兄ら申し出の「共に!」食事外出の誘いをすげなくクールに断ったものです。
今となっては「素直が一番!」でした。

そんな南沙織さん、シンシアとの愛唱でも知られていましたが(吉田拓郎の歌にもなった)、身内間では、
「シンティア(家族名ポール)」と発音し、呼ばれていました。
その当時の筆者の彼女に対する第一印象は「顔、チッチャ!」で、今当時の映像を再現すると黒くもあり。
故郷の地元では当たり前に感じていた健康的浅黒さではありましたが・・・但し誤解なく、褒め言葉です。
<(_ _)>
人気持続中の現役中にもかかわらず、カメラマンの篠山紀信氏と電撃結婚、早期引退が惜しまれました。
今は息子さんの愛されキャラの「篠山輝信」君が、素直なキャラクターで八面六臂の活躍をしています。
「チバリヨー!」
!(^^)!

* * *

さてセンセーショナルな小さな大物兄弟たちが故郷を旅立ち、華々しく本土デビューを果たしました。
彼らもまた本土デビュー前に地元のTV局の公開放送の現場で、その非凡振りを目の当たりにしました。
「筆者注」
曲終了後(1'20"~)に、謎のバンド演奏が抱き合わせ販売のように付いています。無視して下さい(-_-;)。

フィンガー・ファイブ、「恋のダイアル6700」(アテレコとダンス)
Finger 5, " Love call 6700 " (1974)

日本国中の歌謡ポップス・ファンをアッと言わせた晃君の比類なきハイノート・ボイス、驚異的でした。
さすがに日本のジャクソン・ファイブと形容・称賛されたことだけはある才能豊かな5人組兄妹でした。



作曲が共に筆者の敬愛する元ブルコメの故・井上忠夫氏だけあって、そのポップス感覚は群を抜いていました。

フィンガー・ファイブ、「学園天国」(生唄とダンス)

一番ちっちゃい末娘の妙子ちゃん、2'10"辺りで転んでいましたね。
ドンマイ
!(^^)!


この人のデビュー曲にして大ヒットとなった実力派歌手の出世作です。

桑江知子、「私のハートはストップ・モーション」1979年

残念ながら俗に言う「一発屋」となりましたが、今も地道に現役歌手として佳曲を歌い続けています。
但し、残念にもアダルトな歌手の活躍する場が地上波TV等のマスメディアには無く、露出度は極小です。
「チバリヨー!」

* * *

さてお次は大人ムードの歌謡曲で・・・。
沖縄出身の歌手ではありますが、米国発のベンチャーズと共に古都「京都」を歌い、大ヒットを飛ばしました。


渚ゆう子 - 京都の恋(アテレコ合成)


大ヒットにより、その年のレコード大賞の候補にもなったそうですが、作曲者が外国人との理由で玄関払いの憂き目に・・・。


当時のアイドル歌手時代にアダルトなムードで、大人達を納得させて艶やかさが秀逸です。

渚ゆう子 - 京都慕情


オリジナルやカバーを含め京都を歌った曲多数で、その憂いを帯びた艶やかな歌声は唯一無比です。

* * * * *

「脱線昔話(その2):京都・修学旅行の一夜」

今を去ること半世紀近くも前のこと。高2の筆者、修学旅行に参加。およそ半月にも及ぶ本土各地(北限は日光)の観光を行いました。
( その当時、本土への渡航にはパスポートが必要で、左翼学生運動家の来沖や地元学生らとの交流等の阻止で厳しい制限が設けられ、
その米軍方針のあおりで、修学旅行以外での若者の渡航は滅多に許可されず、唯一修学旅行だけが本土旅行の機会でもありました。)

京都での夕刻、地元の若者二人と仲良くなり、空手の話題が出ました。筆者友人が見栄を張り「僕らは空手の達人」と大嘘をつきました。
面食らう沈黙の筆者に「彼は剛柔流の三段」。そして「僕は鉄漢流(だったかの出任せ)の四段」とほざき、彼らを一気に惹きつけました。
「そりゃ凄いわ!なら見せてもらえん?」彼らの喰いつきに友人H君何を思ったか困惑する筆者に演舞を披露するようのたまわりました。
「お前、出来るさあ。ちょっと見せてあげて。」筆者に小声で耳打ちするH君。ためらう筆者に二人から大きな催促の拍手が上りました。
筆者、中3の2学期に一人部員の友人に頼まれて臨時部員をした経験があり、その時に覚えた演舞をH君に披露したことがありました。
( 脱線中の脱線話になりますが、その結果危ぶまれていたアメリカン・スクールとの交流会にめでたく参加することが出来ました。)
『この野郎~、覚えていろよ~』筆者は内心では立腹つつ、クールさと懇願の両方の表情のH君の顔を立たせるべく意を決しました。
『エエイ、どうにでもなれ!』『旅の恥はかき捨て』とばかりに、筆者は初対面の彼らに久々の空手演舞を披露してしまいました。
彼らから湧き上る大きな拍手。それもそうです。筆者のはそれなりに本格的な演舞で、続いて自己表現力旺盛な彼が進み出ました。
「前座の次は、真打ちの私めが披露いたしましょう。」等とほざき加え、得意のジャッキー・チェン流のカンフー風を始めました。
彼らからまたもや大きな拍手。「空手でも流派で随分と違うもんやな~!」と大喜び。ここまでで終わっとけば良かったのですが。

純情素朴な地元の男子二人、筆者らとは同年齢で、高校中退後の今は手描き友禅染の職人を志して見習い中だとのことでした。
これから中学時代からの友人二人と合流予定で、共に筆者らを市内観光へ案内すると誘われ、筆者らも同意し要望を伝えました。
合流したのは筆者らと同級の高2男女、女の子は当時流行りの真ん中分け長髪の色白切れ長目にミニスカートのいで立ちでした。
職人見習いの二人、先程披露の空手が凄かったと物凄くアピール。ミニの彼女も「是が非でも見たいわあ~。」と熱い視線です。
すっかり気を良くしたH君。その要望にあっさり二つ返事。再びの空手演技(1人はまるで嘘八百流)を披露する羽目となりました。
『もう勘弁して。』筆者はH君の嘘に付き合い、2度も「旅の恥はかき捨て」を行ってしまった訳ですが、これがまた受けました。

その当時、京都は大阪と共に関西ロックの発祥の地で、筆者らは地元のバンド演奏が聴けるライブハウスをと所望した次第です。
合流した地元の若者四名、筆者らのホラ・エセ空手の演技披露後は目を爛々と輝かせ、筆者らの要望を快く承諾してくれました。
「いつもは怖い思いしてるんよ。でも今夜は頼りがいのある空手の達人二人が用心棒してくれはるし。嬉しいわあ~!」との言。
傍らのH君「大船に乗ったつもりで任せなさい」と胸を張り、一方小声で「チンピラに絡まれたら逃げよう」と筆者に呟きました。
H君の大見栄・大嘘のせいでとんでもなく大変なことになってしまいました。大いに楽しむはずの京都の夜がこれでは台無しです。
「いいか、ちゃんと聞いとけよ。俺が前なら、お前は後ろ。俺が左なら、お前は右。全速力だからな。」と小悪党そのものです。
「お前、ひどい!」筆者らの小声の困惑逃走相談話しを尻目に、地元の四名は目的地に向かってもう無邪気に闊歩し始めました。
そこは「四条」だったかの賑やかな繁華街だそうで、怖いお兄さんたちも大手・大股で闊歩している危険な場所だとのことです。
人通りの往来多い繁華街へと足を踏み入れた筆者ら一行六名、地元の四名の案内を先頭に立てて内心恐々で前方を注意深く観察。
「さすが、さっきまでとは目つきが違う。まるで猛禽類みたいやし。」と誤解タップリなお褒めの言葉まで頂戴いただきました。
幸いにも!、
その晩は幸いにも強面の怖いお兄さんらに出くわす事もなく、無事にライブハウスへと到着。京都のバンドを堪能できました。
ライブがはねた後の二軒目の喫茶店で住所等交換、初体験の京都弁女子の柔らかな物言いに話しの中身をつい忘れたものです。

長かった修学旅行中、今想い返すと最も楽しかった京都での思い出。
正月には全員からの年賀状が届き、しかも翌年にはお盆休み中に職人見習いの二人がパスポート取得して来沖してくれました。
その際に、「二人とも空手の達人」だと言うのは実は真っ赤な嘘だったと告白して、新たな笑い話に付け加えられたものです。

あれからおよそ半世紀、上京後の度重なる転居で住所も失くし連絡不可な今、彼らのことを時々思い出す今日この頃です。
話し口調がスローで穏やかなT君ら四名(特に女子)の声が、今や遠くなった過去の記憶室の中から時折 聞こえてきます。
(#^^#)

長文となってしまいました。お読みいただいた方、ありがとうございます。

* * * * *

「基地の島からの台風、オキナワン・ロックの台頭、その栄光と衰退」


ベトナム戦争が泥沼化しはじめた60年代中後半から、基地の島オキナワでその誕生の産声を上げました。
戦地へと旅立つ、または一時休暇の荒ぶる兵士たちを相手に四つに組み、その実力でねじ伏せていました。
そんなきな臭い時代、そのサウンドを聞きつけた本土の音楽界から注目を浴び、全国デビューをしました。
本土生まれのロック界とは一線を画したスピード感溢れるヘビー級サウンドが、熱狂的に歓迎されました。

紫、「ドウ―・ホワット・ユー・ウォント」

Murasaki (紫) - Do What You Want


ヒッピー文化を背景としたカウンター・カルチャー的歌詞も、多くの米兵らからも支持されました。
間奏後半の4ビートが堪らなくお洒落で、当時(今でも)の本土製ロック・バンドでは到達不可能な領域です。
彼らの本土ライブでは、国内にこれほどの外国人がいるのかと驚くくらいの若者男女が押しかけていました。
また彼らの噂は遠く欧州にも飛び火、当時では異例なほどのレコード・セールスを記録した現象もあります。
ただ筆者個人的に、彼らの地元での生演奏に数多く接している耳では、レコードの音は大人しく不満でした。
東京の音作りは総じて歌謡曲風なミキシング・バランスとなり、彼らのパワーや音質再現が不足してました。
「残念」


本土で大成功を納めた「紫」に続けとばかりに、破天荒なワイルド振りでならした彼らもメジャー・デビューを果たしました。
圧倒的でスリリングなギター・サウンドと常識を超えたパフォーマンスが、明日をも知れぬ米兵らに熱狂的な支持を得ました。

コンディション・グリーン、「ハート・テイカ―」

Condition Green -" Heart Taker (on BC Street) "



彼らのデビュー・アルバムからもう1曲。

コンディション・グリーン、「トリック」
Condition Green, " Trick "

その当時、国連で主催された「ジャパン・イヤー」の日本代表に選出されたのが「紫」と彼らの2グループでした。
数多くの国内ミュージシャンの中からその2グループだけが太鼓判を押され、C.Gの面々が渡米し演奏を披露しました。
国連のみならず、ディズニーランドにも招聘され、昨今の京都橘マーチングバンド同様に大絶賛を浴びたとのことです。
またL.Aの超有名ライブハウスでの演奏も評判を呼び、当時のキッスのメンバーから来日公演の前座にも抜擢されました。
実際にはやはり色々な圧や思惑もあって、国内招聘者側からその共演を拒否されてしまうと言う不幸にも見舞われました。
「残念」


「脱線昔話(その3)」

在沖縄米軍、とりわけ海兵隊の面々からの人気を誇る彼らでしたが、不幸にも本土でのコンサート構成が不発。
その後は地元沖縄での熱狂的・カリスマ的な米兵人気とは裏腹に、本土での評判は思わしくなくなりました。
復帰前のオキナワで初ライブを敢行した当時のロック界のドンが大ブーイングされ、前座の彼らに激しく嫉妬。
現場目撃の友人談では、演奏開始直後に米兵全員から「帰れ!」、C.Gには「戻れ!」コールが噴出したとの事。
本土デビュー後にも彼が有象無象の圧をかけたことは地元では有名な話し。それらもあって早々と帰沖しました。
当時の音楽雑誌にも彼らを意図的に誤解・貶めたりする記事が多くなり、彼らの人気は急激に萎んでいきました。
何10年か後、やはりデビューした沖縄のダンス・グループが、やはりまた同じような圧で業界から干されました。
その時はもまた芸能界・芸能事務所のドンの様々な妨害工作によりグループは最盛期を直撃され、一時期・低迷。
そのグループ低迷中に抜けたメンバーの一人が、筆者の高校の同級生女子の息子さんでした。残念な結果です。
その後、昨今めでたく人気が回復した彼ら、その類いまれな歌唱力とダンス・パフォーマンス等で活躍中です。
「チバリヨー!」
!(^^)!

* * * * *

「東京残留組のダイナミック3姉妹」


さて復帰前に米軍に鍛え上げられ育ててもらったのは、何もロック・バンドの面々だけではありません。
彼女たちもまた基地の島・基地の街ゆえの環境下で育ち、こんなにも凄い感性と技術を身に付けました。
その早口・巻き舌、ただ単に歌が上手いだけでは表現できないアメリカン・ポップスならではのリズム感が肝です。

boogie woogie bugle boy / EVE


「イヴ」こと新里三姉妹もまた復帰直後に「アップルズ」と言う名前でデビュー。
当時流行のディスコ・サウンドで売り出し、その後はスタジオ・ミュージシャンとして何千本もの録音に参加しました。

リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア EVE


一言、正に圧巻!
彼女らの隙間バックで満面な笑みを浮かべピアノを弾くのは、彼女らの良き理解者の故・羽田健太郎氏です。
今世紀、TVの音楽番組も衰退し、彼女らのような本格的な本物のミュージシャンらが活躍する場所もなく、
ジャリ―ズ軍団や団体アイドルグループが地上波テレビを謳歌している様は、高齢筆者には虚しい限りです。

こんなにも素晴らしいパフォーマンス(歌と踊り)を披露していた彼女らの片鱗だけでも見られるYouTube様には大感謝です。
願わくば、歴史の向こうへと消えつつある彼女らの名歌唱がネット上にいつまでも末永く残り、光り続けられることを・・・。


以上、米軍施政下のオキナワに育ちながらも、沖縄復帰前後(1970~80年頃)に本土デビューを果たした人々の一部を紹介しました。

* * * * *

「筆者後記:沖縄祖国復帰に寄せて(その1)」

今を去ること48年前の1972年、戦後 米国統治下のオキナワが返還され、念願の祖国日本への復帰を果たしました。
故郷の島々は琉球王国の昔日に大陸・支那の文化的影響も受け、明治政府の琉球処分・廃藩置県により沖縄県となり、
その後の大戦で連合軍の史上最大の侵攻を受け、敗戦後の講和条約にて本土を離れアメリカの統治下に置かれました。
その間、米軍は地政学的見地からこの小さな島に膨大多様な基地を構築、その経済下で戦後沖縄は発展してきました。
朝鮮戦争時にも出撃基地として増大した基地はその後のベトナム戦争介入により更に戦略基地として強化されました。
そんな戦時下特需にての基地経済で発展しつつも、基本的人権は無視され、多くの悲劇が住民らにもたらされました。
先の大戦で多大な人的被害を被ったこの島は、今度は加害者の間接的協力者として基地機能に組み込まれもしました。
戦後、祖国日本は著しい経済的発展を成し遂げ成長を続けるも、戦争に翻弄された島にその恩恵は届きませんでした。
度重なる米軍の事故で、小学校にジェット戦闘機が墜落、児童ら合わせて住民18名が死亡する大惨事も発生しました。
そんな中、基地従業員らで組織された労働組合を中心に「祖国復帰運動」が盛り上がり、島ぐるみでの闘争が激化し、
占領下で度重なったタクシー強盗殺人や性被害や交通事故の米兵犯罪の無罪放免判決に住民の怒りが蓄積されました。
そして1970年、筆者高校1年在籍時、
コザ(現沖縄市)市内で米人による交通事故をきっかけに住民らに鬱積された怒りがついに爆発、大きな暴動へと発展。
深夜、集まって来た住民らが通りがかった米人車両を実に88台も襲って放火。いわゆる「コザ暴動」が発生しました。
幸い死者こそ出ませんでしたが、米憲兵(MP)250名・琉球警察500名が朝迄に鎮圧。大きな衝撃が琉米日に走りました。

「筆者注:ご参考までに」

筆者、転載を試みるもブロックが施されていて不可能な動画。以前は問題なしでしたが。
下記のYouTube上の動画2点、「コザ暴動」当時の貴重な記録写真が多数掲載されています。
上の琉球アンダーグラウンドは、沖縄在住の英米のアーチスト2人によるユニットの作品。
ベースとなっている音源は琉球古典の「かぎやで風」と言う祝典曲で、アレンジが秀逸です。
下は、上で紹介のC・Gの同曲ですが、労組の復帰運動の様子や、コザ暴動の動画も有ります。
興味のある方は、YouTubeにて下記検索の上、ご覧になってください。

Ryukyu Underground - Koza Riot

Condition Green - Heart Taker (on BC Street)


しかしこの事件が契機となり、日米間で返還交渉が加速。当時の佐藤栄作首相とニクソンン大統領 間で合意されました。

また沖縄の人々に対する差別的処遇は何も米軍施政下だけに限ったものではなく、日本本土との間にも存在していました。
それは長年の生活習慣や言葉の問題等が主な起因で、当時 沖縄出身者に対する本土からの偏見や差別は相当なものでした。
筆者も度々経験しましたが、アルバイト募集で電話をするも、沖縄出身だと言う理由だけで面接を断られたりもしました。
でもそれには統計的にも一理あり、復帰前に本土へと渡った多くの先輩らの作ってきた実績と評判がそうさせていたのです。
故郷の先輩らは「責任感欠如(遅刻欠勤)」「言葉遣い(タメ口)」「直ぐ辞める」等の悪弊蓄積が現実にあったがゆえなのです。
筆者もそんな悪い評判を払拭すべく尽力したもので、そのおかげで例外的な正社員登用を誘われたこと多数にのぼりました。
そんな南国風なラテン的気質も徐々には改められて、今では地元の結婚式等もちゃんと時間厳守で執り行われるそうです。
本来は当たり前の話しですが、故郷では長年「オキナワ・タイム」と言う悪習があり、1~2時間ズレは全然平気でした。
(-_-;)

また本土との格差に関しては体力的なことも存在していたもので、高校野球を例にとると復帰以前にはその差は歴然でした。
それが徐々に改善され、指導者らの努力もあって今では互角に戦う力を身に着け、全国優勝も成し遂げるようにもなりました。

芸能・音楽に関してもご存じのように、今では全国区の人気と実力を有する歌手やアーチストらをそれこそ多数輩出しており、
彼らに共通するものは、昔日より「芸能の島」としての伝統が無意識に活かされており、民謡にも根ざしたリズム感が秀逸で、
戦後に培かわれたアメリカの音楽文化の影響をも吸収し、今では百花繚乱のような個性の持ち主たちの島々となったようです。
但し、商業的見識に結構 疎いような人々も多くいて、豊かな才能に恵まれつつも開花できずに消え去る個性らもまた多数です。

残念なことに、
本土のメジャーと言われる地上波テレビを中心とする音楽界が供給する音楽は、多分に限定的な若者中心の世界のみであり、
幅広い年齢層や多様なジャンルを提供してはおらず、そのレベルは海外に比べても低く、従って需要側も育ってはいません。
需要側がマーケットとして商業的数量に達していない現状では、発信量の劣る個性的音楽家らに活躍の場は少ないものです。
願わくば、
これら故郷の音楽家らが東京と言う単元的地上波音楽界を超えて、ネットを積極利用して表現活動を行ってもらいたいものです。

* * *

来たる6月23日は「沖縄慰霊の日」です。
「鉄の暴風」と言われた「沖縄戦」から75年、
念願だった「祖国復帰」からは今年で早48年、
筆者が生まれ育った頃の故郷オキナワには無かった「基本的人権」も遅まきながらも得られるようにもなりました。
あれから48年、祖国日本と県となった沖縄は共に豊かになり、世界中から多くの人々が訪れるような国になりました。
昨年は島を訪れた人々、実に1千万人を超えたとのことです。「癒しの島」として多くのリピーターも生み出しています。

とは言え、
今年は国難的ウイルス肺炎感染禍にて、経済的基盤を観光産業にその多くを委ねている故郷は正に苦境の真っ只中にあります。
かつて地獄の戦場となった故郷は地を這って裸一貫で這い上がり、祖国復帰を果たし、その恩恵を享受することができました。
我が故郷沖縄、文字通りの「沖合に浮かぶ縄ヒモのような小さな小島群」の人々に再びの厄災が情容赦なく降り注いでいますが、
今まで幾度も這い上がってきたように逞しく生き延びて、先達たち同様に命の喜びや尊さを表現していってもらいたいものです。

(舌足らずながら、本日はこれにて。後日追記あるやも・・・)

By T講師 こと 当真 英樹

2020年5月18日月曜日

過去の祖国復帰特集のお知らせ

月曜日・冷雨
季節が春へと戻りました。

先週、ブログアップを予定していましたが、思うように進まず「お茶濁し」のアップとなりました。

全国的・世間的にはあまり知られていませんが、
去る5月15日は故郷の「沖縄祖国復帰記念日」でした。

今年は平年とは違う状況下にて、いつもとは異なる特集を企てていましたが、残念ながら資料集まらず断念。
野心を捨てて通常の「音楽特集」としました。が、その編集もままならず、「お茶濁し」のお知らせとなりました。

以前、当ブログの「T講師コーナー」上に投稿した「沖縄復帰特集」の紹介です。
復帰以前の米軍施政下のオキナワの頃の貴重な米側写真資料も満載です。
ご興味のある方は下記青文字タイトルをクリックして是非ご訪問下さい。


「祝・沖縄祖国復帰48周年記念日」

 Okinawa reversion 48th Anniversary in 2020.


2017年5月15日付けです。
筆者なりの労大作(?)です。

[ INFORMATION ]

Once I picked up past-time photos of OKINAWA, before reversion to JAPAN (1945-1972).
On this blog pages " Teacher T's corner, in 3 years ago.
If you interested in these photos & topic, Please come to my private corner.
↑ Click entrance tug, above blue letter. ↑
Please, Check the blog archive 2017,5(MAY),15.
I hope you visit and enjoy there.

Hideki Toma

By T講師
_(._.)_

今年の「音楽特集」の方も、のちほどに・・・
(-_-;)


2020年5月11日月曜日

母の日、春別れの日

月曜日・晴・蒸し暑し
まるで本格的な「夏」到来のような1日でした。
相変わらず、充実した日々と快風(昨日まで)を楽しんでいます。

こちらもまた相変わらずの時差投稿、ご容赦。
夜、編集を試みるも昼間の各種肉体疲労にて瞬間寝落ちの日々。
まるで遊泳後の快風ような健康的な日々にて有り難い限りです。

* * *

「ミュージック・ギャラリー(その413):母の日、春別れの日」


昨日・日曜日は「母の日」でした。
今回はそれにちなんだ曲を2曲だけ。
しかも故郷・沖縄(出身)の女性シンガーにて。

沖縄出身で、現在は東京で活動するシンガーソングライターのカバー・ヴァージョンです。
春の薫風のような清楚な爽やかさが魅力です。

ユーリー、「アンマー(母)」かりゆし58 カバー

 Eurie 、" Anmar " ( Cover, Acoustic Ver.) 2015


歌にアコギ1本、シンプルそのもので良いですね。
歌詞の中の命名は、ひょっとして彼女と同じかも。
バッキングのアルペジオ・カッティングとストローク・プレイも好感が持てます。
使用のカポ、筆者と同じU.S.Aはシャブ製。完成度素晴らしく 絶対のお勧めです。

カバーには色々な動機とアプローチがあって、それがカバーならではの個性にも繋がります。
彼女の場合は詞の内容を歌うような個性ではないとは思いますが、これもまた有りかなって。
例えば演歌の楽曲をボサノバ・タッチで料理するのも可で、そんな試みも興味深いものです。
カバー曲好きな筆者、プロアマ問わずそのリスペクトや調理・味付けを日々楽しんでいます。
以前紹介のマルチ奏者ガンヒルドさんもロック名曲を往年のスィング・ジャズに編曲して妙味でした。
YouTube様様。
_(._.)_

(原曲の方、次回の5月15日の「沖縄祖国復帰特集」にて久々登場予定。リアル詞の世界はその際にでも。)



こちらも故郷・読谷村の出身の二人組。その才能がマイナー&ローカルな存在を突き破って開花しました。
東京の大手芸能事務所がマスメディア相手に裏で仕掛ける企画ものとは無縁な自然発生的なヒットでした。
YouTube上にオリジナル音源なく、思わず絶句する場面あるライブ動画を今回は選ばせていただきました。
素朴さ溢れる彼女ららしく、かえって筆者のお気に入りとなりました。
今では両者共に、故郷で3名の子供たちを持つアンマーとなりました。

Kiroro【キロロ)、「未来へ」(ライブ)

キロロの二人、ビギン同様に彼女たちもまた沖縄の「宝者」です。


今年の「母の日」、残念にも世界的なウイルス感染性肺炎禍で、直接会えなかった人々も多かったとの事。
その代わりのSNS双方向動画や、旧来のせめてもの声だけの便りでも届けてあげられたことと思います。
筆者の母は故郷の那覇で健在(90歳)ですが、アルツハイマー病進み、残念にも筆者の顔も分かりません。
でもいつも笑顔で日々ご機嫌だと言うことが、せめてもの救いです。
今年秋の帰郷予定は断念。再会するには共に生き延びるしかありません。
何波をも繰り返す長期戦の様相を呈してきたこの度の感染禍、果たして。

* * *

「ミュージック・ギャラリー(その414)」

「第2部:春別れ、夏始まり予感」


当コーナー、第2部として上の「母の日」の爽やかさとは別テーマを取り上げ、暑さへとシフトしました。

ここ関東は各所で「夏日」「真夏日」が記録されました。
と言うことは「春別れの日」、即ち「夏始まりの日」です。

故郷・沖縄は本日(5/11)「梅雨入り」したとのこと。
その後は本格的な「夏」の到来。ここ関東もあとひと月ほどで追って「梅雨入り」。
本日の湿り気を帯びた蒸し暑い風を嗅いで、筆者の脳裏に例によって懐かしの曲が流れ出てきました。
第2部はその中から1グループの2曲を。
前回特集に続く、懐かしのロック音楽です。

ジ・オールマン・ブラザース・バンド、「ジェシカ(インストルメンタル)」

Jessica - The Allman Brothers Band, (1973)


ディッキー・ベッツとレス・デュ―デックのコンビによるツインリード・ギターが爽快です。
稀代の名ギタリスト、デュアン・オールマン亡き後はカントリー・ロック色が濃厚ですが、
その後も男臭い骨太なアメリカン・サザン・ロックの旗手としての貫禄を保ち続けました。
「ブルース」が夜の雰囲気を漂わせているなら、「カントリー」はその逆の昼間の感じです。
筆者個人的にはデュアン在籍時の夏の夜を思わせるスライド・プレイに魅せられていました。
ブルースに立脚するも中空を舞うような奏法から「スカイ・ドッグ」の異名も冠されていました。



早速の「脱線昔話(その1)」

2曲共に当時のオキナワン・ロックのロッカーたちからも、ZZトップ等と共に愛されていました。
「紫」や「キャナビス」らが好んで取り上げ、特にジョイント・コンサートの際は圧巻でした。
万座ビーチ等の野外コンサートでの演奏は圧巻で、復帰前後の沖縄の風景に良く似合っていました。
青空・白銀雲にて始まったコンサート、出演バンド全演奏後の最後にオールスターよろしく勢揃い。
「スーパー・セッション」状態でバンド全員ステージ狭しと入り乱れ、その力量を競ったものです。
ツインを越してトリプル・リード・ギターや、ツイン・ボーカル、ダブルのドラム&キーボード。
そこにサンタナ・メドレーも加わり、ティンバレスやコンガにボンゴと、まるで音の洪水でした。
メインを盛り立てる者たちは、タンバリン・マラカス・カウベル・ギロと大リズム隊と化しました。

米兵やその家族や恋人、地元の若者ら皆立ち上がって踊り、汗とビールとマリワナの香りに包まれて、
青空の下で始まった南国の喧噪は夜空の満天の星々に見守られつつ、フィナーレを迎えたものです。
2曲目、その夜の雰囲気です。
ツイン・リードのハーモニーとハモンド・オルガンの調べが風吹く夜空へと吸い込まれていきました。

ジ・オールマン・ブラザース・バンド、「エリザベス・リードの追憶」(インストルメンタル)

The Allman Brothers Band : In Memory Of Elizabeth Reed (1970)


動画のスチール写真の左端が今は亡き、在りし日のデュアン・オールマン。バイク事故で他界。享年弱冠24歳。合掌。

「脱線昔話(その2)」

夜フィーリングの「ブルース」と、昼フィーリングの「カントリー」の両者を併せ持つ男臭いバンド、カッコ良いですよね。
筆者も初来日の90年代以降に2度ライブを経験しましたが、東京の小奇麗なコンサート会場ではやはり違和感がありました。
そんな感想をコンサート帰宅時の小田急線・電車内で友人と話していると、見知らぬ同乗者が筆者らに話しかけてきました。
「そう思うでしょう。だから僕なんかちゃんと準備しているんですよ。」とニッコリ笑って胸の内ポケットに手を入れました。
彼がコール天ジャケットのポッケから取り出したのは何とウィスキーの小瓶で、「アーリータイムズ」と言うバーボンでした。
「ビール瓶だとかさばるし、それにトイレも近くなるから。彼らの時にはいつもこれで楽しんでいるんですよ。」とニッコリ。
「何とその手があったか!」筆者らも行儀の良過ぎるコンサートの時には是非そうするよと彼のアイデアに大いに同調しました。
やはりオールマンの雰囲気には米国南部のウィスキーや、ビッグバイクのハーレー等のエンジン音や質感などが似合いそうです。
筆者、その後そうはしなかったものの、その扁平なミニ・ボトルの雰囲気が一目で気に入り、後日酒屋を探して購入しました。
中身を飲んだ後は(バーボンは癖があって最近は飲めません(-_-;))、その琥珀色も楽しむため、時々安酒を入れて楽しみました。
最近、またそのボトル(中身じゃないよ)の可愛さが懐かしくなり、部屋の飾りにまた購入したいかな、と思う今日この頃です。
「人はパンのみに生きるに非ず」とは昔日賢者のありがたい御言葉。
音楽も、お酒も、その容器(小瓶)も。
ミーハー筆者の余談脱線昔話でした。
お粗末様(_(._.)_)

* * * * *

「夏始まり」は黒潮由来の太平洋高気圧の日々、故郷近づく季節の始まり。
( 但し、本土の夏は故郷よりも海風がない分、余計に暑い気がします。)
大陸由来の爽快な薫風とは惜しみつつも別れを決断しなければなりません。
でも黒潮の湿気はまた沖縄三線の音色を蘇らせる季節の始まりでもあります。
低い湿度で乾き縮んだ表皮が柔らかさを取り戻し、響きに余韻が膨らみます。
逆に他のアコースティック楽器にとっては、受難の始まりの季節の到来です。
弦楽器は弦を程々に緩め(1度半前後)、直射日光や高温多湿を避けましょう。

ウイルス感染に気をつけつつも、四季に恵まれたこの国の風土を大いに楽しみましょう。


来たる5月15日は、何と「沖縄祖国復帰」48回目!(歳取る訳だ!)の記念日です。
これまでにも毎年特集を組ませていただいていますが、今年も同様に予定しています。
が、果たしてどうなることやら・・・(投稿時差・遅延は既に確定済み(#^^#)です)。

By T講師

2020年5月7日木曜日

南小島に押し寄せた英国音楽たち

木曜日・快晴

異例のガラガラ無人のゴールデン・ウィークは昨日で終了しました。
相変わらず(以前にも増して)ストレス・フリーな日々を満喫しています。

「緊急事態宣言」延長決定


昨日までがその期限だった自粛期間も、本日より5月末日までの更なる延長が決定。
感染者数の劇的減少なく、「命」と「暮らし」の両立が困難な現状においてはやむを得ない措置です。
ですが、経済的に追い詰められている国民も多く、その早急な支援策が必須です。

* * *

「ミュージック・ギャラリー(その412)」


ブリティッシュ・インヴェイジョン

(大西洋を渡ったイギリスの米国侵略)

「南小島にも押し寄せた英国音楽たち」


と、しつつも、結果的にミニ自分史ともなってしまいました。
興味の無い方は文章は飛ばして、音楽だけでもご視聴ください。
( でも読んでもらえると更に嬉しいです。)
😊

前回特集にて、イギリスのオーディション番組に登場の素晴らしいアマチュア音楽家たちの雄姿をご紹介しました。
今回の特集は時系列的には半世紀以上も前の過去へと遡りますが、そんな彼らの先達とも言える英国生まれの音楽を、
大先輩でもある米国へと輸出し、しかも世界的な名声を得て不動のものにした人物らとその音楽を取り上げました。



冒頭から早速の「脱線プチ自慢・昔話」

筆者、小学4~5年生だった当時、
兵器・戦争マニアだった小4頃の筆者、イギリスに関しては同級生らよりも既に多大な情報を有していました。
戦闘機のスピットファイヤーやホーカー・ハリケーン、モスキート、爆撃機のハンドレページ等にはじまり、
珊瑚海海戦で日本軍の攻撃により撃沈された戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」や「レパルス」の存在。
人物ではマレーの虎の異名の持つ「山下奉文・陸軍中将」に無条件降伏を迫られた司令官「パーシバル中将」、
または英国海軍人の鑑と言われたネルソン提督や、英国を守り抜いたウィンストン・チャーチル首相等、
大人向けの戦史書をも愛読しだこともあって、それなりに莫大な知識を有する、今風で言うオタクでした。

そんな頃、
小学4~5年生になった筆者の耳にも、不思議な社会現象としてのビートルズの噂が飛び込んできました。
曰く
「女みたいに髪の毛を長くした男たち」で、「ファンの女子らは熱狂のあまり、絶叫して失神してしまう」等々、
「そんなバカな・・・」そんな初のセンセーショナルな噂話の現象を耳にし、にわかには信じられませんでした。
でもその噂話は何も小学生のみならず、近所の中学・高校生のニーニー・ネーネー間でも熱く語られていました。
しかもその噂話の真贋を両親に尋ねると、何と親までもが「そうらしいよ。信じられんねえ~。」と答えました。
「ビーとるず?!」「髪の毛が女の人みたいに長い?!」「ファンの女子たちがみんなで絶叫して失神する?!」
それはまるで現実社会の中に突如現れた怪獣やホラー話のようでした。
それほどまでに、彼らの日本本土上陸やオキナワでの音楽出現は、異常なほどのセンセーショナルな出来事でした。



1960年代中頃のこと、
当時、ギターと言えばいわゆるクラシック・ギターで、その入門少年や青年たちは「禁じられた遊び」と言う暗い曲、
大人はと言えば作曲家 兼 ギタリストの古賀政男氏の楽曲「影を慕いて」に代表されるやはり暗い曲調の音楽でした。
そんな中、米国からザ・ベンチャーズの音楽が紹介されて、我が国の初のエレキ・ギター・ブームが起こりました。
その当時、エレキやエレキバンドを演る男子は皆が不良少年呼ばわりされ、大人達からは白い目で見られていました。

そんな中でのビートルズ初来日(1966年)、武道館 始まって以来のコンサートに教育関係者や右翼団体らが反対を表明、
全国の中学・高校では彼らの公演には行かないようにとの指示や通達も出され、大きな社会問題ともなったようです。
かくてアジアで初のビートルズ公演は敢行され、合計5回に渡る武道館での熱狂ライブは今では伝説となっています。
当時の報道では、熱狂的女子たちの叫び声の凄さに、彼らの演奏は全く聞こえなかったと批判的に伝えていました。
アトリエ生徒の東京生まれのHTさんはそのライブの経験者の1人で、演奏はそれなりに結構聞こえていたそうです。
「羨ましい~!♡」
と言う訳で、ビートルズ来日が戦後の音楽史に残した足跡は大きく、英国や米国に続いて多大な影響を与えました。

極論をすれば、男子はベンチャーズ、女子はビートルズと言う風に当時の人気は二分されていたと言えるようです。
その刺激が後に合体し、国内のグループ・サウンズ(通称GS)ブームへと繋がり、筆者もファンとなっていきました。

さてそのビートルズ、
傑作揃いの彼らの楽曲は選ぶのに苦労。しかも筆者の思い入れの強い曲がことごとくブロックされていて、仕方なく断念。
ここは妥協を図り、ダイジェスト編的な動画を今回はお借りしてきました。
主人公たる彼らのたった一編だけの動画にて、彼らの楽曲の片鱗をどうぞ!
( ロックの醍醐味である迫力を余すところなく再現するため、外部スピーカーやヘッドフォーン利用にてご視聴下さい。)

「ザ・ビートルズの革命」

Evolution of Beatles' Music Videos


今回、筆者がどうしても取り上げたい曲、残念ながらお借りできませんでした。
YouTube上ではオリジナル録音の音源のほとんどが無く、或いは現著作権者により厳しくブロックされていて、
動画タイトルにビートルズとその曲名があってもそれはカバーばかりで、そのタイトル自体にはスルー状態です。
先立って、元メンバーのポール・マッカートニー氏が著作権の返還を現所有者に求める告訴が伝えられていました。
云わば詐称的動画は野放しにしつつ、オリジナル録音盤のアップには厳しい現著作権者の道義的責任が問われます。
文化的側面で言えば、世界的に多大な損失です。

偉大なるビートルズ、今回はこのダイジェスト版動画1篇にて全てパス!
名曲あり過ぎて絞れませんでした。信じられませんが、ご勘弁を・・・。

* * *

さてビートルズに続いて米国を侵略したのは、ご存じ 今も現役の超大物のローリング・ストーンズです。
筆者がロックとロックバンド自体に目覚めたのは実はビートルズではなく、ライバルの彼らからでした。
その当時、ロックと言う呼称は未確立で、周囲では「ビート・ミュージック」と言ってた記憶があります。
そのストーンズの前に・・・。

はなから「断線昔話」の第2弾
「エレキ・バンド」

(後日注:以下は筆者がエレキ・バンドを組んでいたため、英国音楽もまたロックのみを取り上げました。)

中学進学後すぐに新展開、増えた友人らの中にエレキ・ギターを弾いていてバンドも結成している者多数。
( 追補記:ベビーブーマー最後尾の世代、我が校は1学年クラス50人以上で何と17クラスもありました!)
筆者の小学校でも数人いましたが数校から集まった我が中学、もの凄い人数の演奏家が集まっていました。
エレキ・ギターだけではなく、ベースやドラムを演奏する者も多く、みんな仲良しの仲間になりました。
バンド練習を見学した筆者、即刻にギターとドラムに飛びつき、多くの仲間たちから教えを受けました。
筆者の「ギターをやってみたい」との声に、翌日には数本のエレキと2~3個のアンプが揃ったものです。
それ位に、故郷の南小島ではベンチャーズ以来のエレキ愛好家(又は逆に挫折者)が存在していました。
情に厚いバンド仲間たち、その後ダンパの際などには、頼むまでもなく駆けつけて協力してくれました。
そんな仲間たちに絶大な人気を勝ち得ていたのは、米国のインストルメンタル・バンドのベンチャーズでした。
筆者もギタリストやドラマーから手ほどきを受け、彼らベンチャーズの数曲を練習し、習得したものです。
下はその練習曲の一つでベンチャーズ版をコピーしましたが、彼らが下敷きにしたのがアニマルズ版です。



20歳そこそこの、しかも外国人に自らの民謡(しかも内容が娼館)が歌われて、世界的大ヒットしたことに、
多くのアメリカ人たちが驚きと共に(恥ずべき歌詞に)失望もしたとのことです。
また筆者もそうでしたが、多くの人々がその歌手を黒人だと勘違いしたそうです。

中1の筆者が初めて覚えたコード・アルペジオ(Fのバレーコードに苦労)と、そしてドラムです。
オルガン奏者が周囲には居ずに、バンドではベンチャーズ版のリードで3年間やっていました。

ジ・アニマルズ、「朝日のあたる家」(1964年)

 The Animals , "The House Of The Rising Sun " (Lyrics)


今世紀の今聞いてもヴォーカルのエリック・バードンの歌唱、ソウルフルで素晴らしいの一言です。

「後日追記:追い打ち、脱線昔話」
「中学当時のエレキ・ギター事情」

その当時、故郷オキナワの筆者の周囲に数多くあった国産のエレキ・ギターはその100%が中古でした。
当時に普及していた国産品(ごく一部を除いて)は、現在とは比較にならない程の低レベルな製品でした。
まずチョー重たい(ボディーがラワン材も多かった)!、そして一番の問題は音程が合わない!事でした。
今で言うナット音痴の状態だったので、いくらチューニングしても調律が正確に合わなかったものです。
現在は米国のフェンダー社やギブソン社の各コピー品をはじめ、安価ながら高品質で羨ましい限りです。
ちなみに故郷の中古品にはソフト・カバー等ついてる物はほとんどなく、ましてやハードケース等皆無。
なので坊主頭の中学生が裸のエレキ片手に町中を歩く姿や、バスの中で空弾きしている者等多数でした。
恥ずかし気に身体の影に隠す者、自慢げにこれ見よがしに見せびらかす者、様々な人間模様垣間見られ。
筆者はドラム担当だったので、友人から借りたそれらをタクシーを拾って自宅まで持ち帰ったものです。
幾度もの乗車拒否(トランクにガスボンベ搭載車にて無理)を重ね、親切な運転手さんは手伝いやエールも。
練習は雨戸を閉め更に毛布も被せて防音としました。サウナ状態の中、皆上半身裸で頑張ったものです。
練習中は激しいピッキングでピックの焦げる匂い漂い、終わった後には皆の立ち位置には汗の水溜りが。
ある日、窓にノック連打、恐々開けると隣のオバー「聞こえん。開けたらいいさあ~。」とのエールも。
言葉に甘えて窓解放。オバー、カチャーシー踊り、周囲にはいつしか沢山のワラビンチャー(子供ら)が。
今となっては懐かしくも暖かく微笑ましい、半世紀以上も前の故郷オキナワ那覇の光景です。

* * * 

「運命のファズ・トーン」

中2になった春の事、小学校からの友達でクラスの違うK子から珍しくも小学校以来に声をかけられました。
「あんた、バンド始めたんだってね。だったらこれ要らないねえ~?コンサートの切符なんだけど・・・」
「うちの二人のニーニーがコザでバンドやっててさ、今度 那覇でもコンサートやることになったわけさ。」
「もし興味があるんだったらこの切符買って。1ドルって書いてあるけどさ特別に50セントでいいさあ~」
「その代わり何人か誘ってもらえないね~。そうしてもらえると助かる。この切符、うちの義務だわけ。」

そんな経緯で筆者は初めての生バンドのコンサートにバンド仲間数人を誘って、演奏会場へと向かいました。
海岸沿いの会場は(休業中?の)レストランで、表にはテーブルや椅子が積み上げられ、多くの年長者らの姿。
その路肩にはバンドの楽器運搬車と思われるワーゲンのバンが停車、周囲には煙草を吸う関係者らがたむろ。
今までみたこともない艶やかなニーニーやネーネーらと共に、外人の不良風な男女も数名混じっていました。
チケットを売ってくれた同級生のK子も、3~4人の遊び人仲間と共に派手な衣装に派手化粧で現れました。
筆者の従姉妹のネーネー(白人との混血美人・彼氏連れ)にも遭遇、「お互い内緒にね(^_-)」とは彼女都合。

さて30分ほど遅れて会場入り、店内奥に並べられたドラムや大きなアンプ類に筆者らは目を見張りました。
シンバル多数のドラムセット、両側で直立するボーカル・アンプ、初見参のマイク用ブーム・スタンド等々、
大型のベース・アンプに米国製フェンダー社のアンプ類、エコーマシン等、見る物の全てが輝いていました。
照明は消され、アンプ類にはスイッチが入れられ赤いパイロットランプの点灯と共にハム音が始まりました。
さていよいよバンドが登場しました。K子の二つ上の兄の顔は小学校以来で、その上の長男は初見参でした。
筆者の兄と同級生の兄はギターで赤いセミアコ、上の兄の方は茶色のベース・ギターを手にしていました。
二人とも進学はせずに中学卒業後すぐにコザでバンドボーイをはじめ、やがてプロになれたとの事でした。
アイビー青年やミニスカートに派手化粧のネーネーらに混じって、丸坊主の筆者らも前列横に陣取りました。

そしていよいよの初体験、生バンドによる生演奏が開始されたのです。
その1曲目からしてもの凄い衝撃で、イントロ数秒で筆者の脳ミソはぶっ飛び、全身に鳥肌が立ったものです。
ファズトーン使用によるギター、唾まき散らした歌いっぷり、タンバリンの3連符、もう衝撃そのものでした。
筆者のそれまでの人生の中でこれほどの衝撃を受けたことはなく、終わった時にはもう疲労困憊の極みでした。
その曲はアンコールでも2度 演奏され、筆者は初めて聞くそのファズトーン・サウンドに一気に打ちのめされて、
その日の就寝時も、あのワイルドそのもののサウンドが永遠ループのように筆者の脳裏で鳴り響いていました。
その初コンサートの翌週、
筆者がギターのピンパン君(本名ニックネーム)と共にファズ・ボックスをゲットしたことは言うまでもありません。
その後は、熱中などと言うには余りにも淡泊なくらいに、ロック(その頃から?)バンド活動にハマってゆきました。
一心不乱ぶりが祟り、小1~中1までずっと優秀だった成績も右肩下がりの急降下一直線に終始してしまいました。
( 期待していた今は亡き父よ、病床の母よ、重ね重ねも御免<(_ _)>)

さて前置き、とんでもなく長くなり過ぎてしまいました。
筆者の人生を変えたと言っても決して過言ではない運命の1曲です。


ザ・ローリング・ストーンズ、「サティスファクション」
The Rolling Stones , " Satisfaction "

" Oh no,no,no,  Hey, hey, hey, That's what I say ! " このブレーク、今でも鳥肌立ちます。
21世紀の現在、歳月を重ねて高齢者となった今なお聞いても、キースのギターも凄いですね!
リフの直線的なファズのワンフレーズ・リフもそうですが、歌のバックでガチャガチャするフレーズもまた凄いもの(感性)があります。
最後まで「オカズ(フィルイン)」を一切一秒たりとも加えない「ご飯(基本リズム・ビート)」だけのドラミングもまた潔くて秀逸です。



もう筆者のバンド熱はとどまるところを知りません。
彼らの代表曲をあと2曲(当然コピー)だけ、続けます。

ザ・ローリング・ストーンズ、「黒く塗れ!」

The Rolling Stones - Paint It, Black (Official Lyric Video)


上の「サティス~」の「ごはんだけドラム」とはまた真逆の「オカズ太鼓」がチョー格好良くて筆者の十八番でした。
金髪オカッパの故ブライアン・ジョーンズが座してつま弾くインドのシタールもまたカッコ良かったです。


ザ・ローリング・ストーンズ、「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」

The Rolling Stones - Jumpin' Jack Flash - Lyrics


故ブライアン・ジョーンズが健在だった初期の彼ら、他にも名曲多数です。
「夜をぶっ飛ばせ」「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」「シーズ・ア・レインボー」「ダンデライオン」「テル・ミー」等々、
バラードでも「レディー・ジェーン」「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」「ルビー・チューズデー」等々、名曲だらけです。

彼らの音はダーティーな感じで、それはボーカルやバック・コーラスにも共通していて、そこが魅力でした。
ビートルズのクリーンかつ音域の広い歌唱やコーラスは、変声期を迎えた中学生には近づけない領域でした。
その点、ストーンズは音域も狭め(失礼!)で、演奏時の多少の稚拙さは「味わい」となり、皆が楽しめました。
彼らの多数曲をコピーして、ダンスパーティーを友の父所有の改装中のバーやクラブ等で開催していました。
!(^^)!


イントロ・リフにも一発でノックアウトされました。こちらもまた多くの仲間バンドの持ち歌となりました。

ザ・キンクス、「ユー・リアリー・ガット・ミー」

The Kinks - You really got me (LYRICS/LETRA) [Original]



彼らのスピード感溢れるパワフルな演奏にもやはり多くの仲間たちが飛び付き、そのコピーを競いました。

ザ・フー、「マイ・ジェネレーション」

The Who - My Generation (Lyrics, 1965)


ベースの故リチャード・エットンウィッスルのブレーク時のソロもぶっとい音で、めちゃカッコ良かったです。
歌詞の" I hope I die before I get old "に当時は痛く同調していましたが、立派に高齢者になってしまいました。
感謝です(#^^#)。

ブリティッシュ・インヴェイジョンの初期、ビートルズを筆頭に数多くの英国人アーチストたちが米国へと上陸を果たしました。
その代表的なグループやシンガーは、
前述のアニマルズに続き、デーブ・クラーク・ファイブ、ハーマンズ・ハーミッツ、スペンサー・デイビス・グループ、
サーチヤ―ズ、ゾンビ―ズ、ホリーズ、ジェリー&ペースメーカーズ、マンフレッド・マン、プリティ・シングス等々、
ソロでは、ペトゥラ・クラーク、ドノバン、ルル、マリアンヌ・フェイスフル、シラ・ブラック等、多岐に渡りました。
進出を受けた側の米国では若い人々を中心に彼らが支持され、やがて既存の業界を超えた文化を造り出していきました。

* * * * *

「筆者、初めての英国映画」

筆者注:以下の特集動画は「英国映画」がメインで、動画内の音楽家の方はオーストラリア出身の兄弟です。

「五月一日」、今年も逃してしまいました。当日にご紹介したかった曲は、その曲名まんまの「五月一日」です。
これまでにも幾度か紹介しましたが、ドンピシャの日は逃していたので、今年こそはと密かに目論んでいましたが、
結局 今年も直前でド忘れ、その機会を逃してしまいました。でも今回のイギリス特集で何とかコラボを果たせました。



本国英国内でよりも、遥か極東の日本で大ヒットした映画「小さな恋のメロディー(原題:メロディー)」です。
映画画面から漏れ出るイギリスはロンドンの街並みや墓地、一般家庭の住居内の様子など、全てが新鮮でした。
特に学校の教室や音楽室など、もう興味津々でストーリーを忘れて、食い入るように見入ってしまったものです。
当コーナー前後のロックとはまた異なる美しいアコースティック世界、一息つきの口(耳?)直しに・・・。

Bee Gees - First of May (with lyrics)


ザ・ビージーズ、「若葉のころ」歌詞和訳

*** Melody Fair - The Bee Gees - Lyrics


筆者、成人後にロンドン郊外のプライベート・スクールに訪問の経験があり、正にこんな感じでした。
古城改造の学生ホールにはギターやチェロがゴロゴロ、八頭身の女子中高校生らがレオタード姿で体育。
狭い廊下を脇から通過する彼女たちに、筆者 目のやり場に正直 困ってしまいました💛。
(今年の夏には妻が再訪する予定でしたが、今回の肺炎感染禍で中止となってしまいました、残念( ;∀;)

「追記:脱線スポット:お勧めの英国映画」

米国発のハリウッド映画が世界的には圧倒的な存在を占めていますが、英国映画もなかなか捨てたものじゃありません。
派手さはありませんが、味わいや渋み等では大資本映画には決して引けを取らない存在感や輝きを放っています。
以下に少々 記しておきます。「ステイホーム」に行き詰っている方々、騙されたと思ってトライしてみてください。

「ザ・ブラス」・・地方の炭鉱労働者らで結成されている吹奏楽団が、中央の全国コンテスト目指して頑張る姿が感動的です。
「リトル・ダンサー」・・・・やはり地方の小さな町でバレーダンサーを夢見る少年が、数々の困難を乗り越えていく話です。
「ローカル・ヒーロー」・・・小さな漁村に突如として湧いた開発話に右往左往されてゆく人々をユーモラスに描いています。

そのいずれもが英国のつましい家庭の様子が克明に描写されていて、そこで展開される心温まる人間模様が秀逸で涙物です。
よろしかったら御覧になってみて下さい。

* * * * * * * *


「高校時代:更にロックに溺れる」



筆者が高校に進学した頃、海の向こうの英米のロック界が更に輝きを増しました。
ダンス音楽から派生したようなビート・ミュージックから、次第にアーチスト性が加わり、更に演奏能力も向上しました。
そんな中から「アート・ロック」と呼ばれる一群のバンドが、英米から同時発生的に誕生してきました。
英国ではピンク・フロイドなどのプログレ・ロック、米国ではバニラ・ファッジやアイアン・バタフライ等、
従来とは異なる演奏力と創造力とを伴って、ロック・ファンらの度肝を抜く楽曲群を提供してくれました。

「筆者、吹奏楽部に事故入部を果たす!そして逃走!」

高校の入学式、その式で吹奏楽部の超パワフルな演奏にほだされ、何を血迷ったか、筆者式の直後に入部希望を申し出。
「これはロックだ!」金管隊や打楽器隊の迫力もの凄く、第1号入部者(実際は中学時から入部決定者多数あり)となる。
されど練習超厳しく、ロックバンドなどやる暇皆無!おまけに男子全員丸坊主!(気づかなかった私が馬鹿なのよ( ;∀;)
しかも加えて、左利きを理由に希望の打楽器隊を外され、天才先輩のいるアルト・サックスに回されて地獄の日々に。
でも米国人何千人ものフットボール・ナイターでパレードしたり、軍楽隊と共演したりの楽しい思い出もありました。
結局、根性と才能のない筆者2年進級を前に退部、今まで溜まっていたウサを憧れのロック・バンドで発散しました。

しかも、今では信じられないほどの超ロング・ヘアー(後方からだと女子に間違われる程の直毛長髪)となって・・・
(-_-;)

「ブリティッシュ・バンド大襲来」
ブリティッシュ・インヴェイジョン、第2波

筆者のロック熱、バンド愛、めでたく「もう誰にも止められません」状態になりました。
米軍基地の大要塞と化していた南の小島にも英国生まれの音楽が更に鳴り響くようになりました。
地元のロック・バンドが群雄割拠、今では考えられないほど多くの米兵たちを相手に、連夜活躍していました。
ベトナムの戦地に向かって旅立つ兵士、または一時帰休の殺気立った米兵たちを相手に彼らのロックを聴かせ、
ロックの本場出身の彼らに圧倒的で絶大な支持を得ていました。
そんな彼らが好んで演奏していたのが英国生まれのハード・ロックの数々で、当時のオキナワにも良く似合っていました。
当時、故郷オキナワに在住する米兵・軍属・その家族らに人気があったのが米国のグランド・ファンク・レイルロードと、
この英国発のレッド・ツェッぺリンの二大バンドで、ご当地の米国内においてもライバル視されていたようです。

レッド・ツェッぺリン、「グッドタイムズ・バッドタイムズ」

LED ZEPPELIN - Good times, Bad Times (1969)


ドラム担当の筆者にとって衝撃的な彼らのファースト・アルバムでした。
圧倒的なヴォーカルやギターのみならず、その屋台骨を支えるドラムのジョン・ボーナムのプレイは革新的でした。
ロック・ドラムの迫力だけではない、かつて聞いたこともないその超絶技巧は筆者に初めての挫折を与えました。
楽譜もタブ譜も無い時代。皆がレコードをカセットに録音、同じ個所を何度も聞き返して完コピーに挑みました。
でもめげずに近づこうと必死に練習を重ねた日々でした(勉強もせずにね。一体どんな高校生っだったのかい?)。
また、大きな音を出すバンドの練習場所には皆も苦労しますが、当時は貸しスタジオ等と言う気の利いたものなく、
基本はメンバーの自宅勉強部屋が多く、それぞれ順番に1月単位を目安の持ち回りで、移動して練習していました。
でもお金持ちの友人もいて、親所有の映画館裏の屋上(何とビートルズより先!)だったり、大きな元社員寮もあり、
その時は広いコンクリ―ト家屋で気兼ねなく大きな音で練習三昧。野次馬男女ファンらも大勢押しかけてくれました。
またその練習場所を提供した友はオーディオ・マニアでエンジニアも買って出てくれ、色々な物を作ってくれました。
専門誌に掲載の回路図を基に、高価で入手不可能な米国製のエフェクト装置やテープ・エコー等も自作してくれました。
現在は経営者として成功している彼に、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。


脱線はそこそこ(もうトゥーマッチ!)に2曲目に行きましょう!

レッド・ツェッぺリン、「胸いっぱいの愛を」

Led Zeppelin - Whole Lotta Love [w/lyrics]


この曲もまた大好きな曲で、ギター担当のT君がブレークのギター・ソロを必死になってコピーしていました。
「指がガラシマガイ(沖縄方言でこむら返りの事)起こす!(-_-;)」とぼやくも、完コピーに漕ぎ着けました。
でもその粘る音質(米国製ギブソン社のレスポール)は再現できず、ブースターとファズで代用してました。
当時、ギブソン・タイプの強力ピックアップは国内には無く、シングコイルPUにて全てを代用していました。
しかも当時、故郷の南小島にライトゲージ弦なんて無く、皆レギュラー弦で必死にチョーキングしていました。
そんなハンディキャップ、逆にバンド仲間らのパワー獲得に間接的に役立っていたと上京後に初めて知りました。
またコザで活躍するバンドの多くが、本土・東京でも入手不可能なこれらの高額機材を潤沢に使用していました。

* * *

さて曲の方に参ります。
レッド・ツェッぺリンに続き、彼らもまた衝撃的登場でした。トリオ・バンドの極致です。
中2で出会ったファズ・トーンに加え、エフェクターのワウワウ・ペダルにも出会いました。

クリーム、「ホワイト・ルーム」

Cream - White Room ( lyrics )


歌詞2番の" goodbye window(s) "と言うフレーズが筆者は初聴取時以来のお気に入りで、色々な光景が浮かび上がりました。


クリーム、「サンシャイン・ラブ」

Cream - Sunshine Of Your Love ( lyrics )


今ではヴォーカリストとして不動の地位を得たエリック・クラプトンの若き日の演奏、神がかり的でした。
本土ロック界では話題に上らないようですが、ライブの「スリーピー・タイム・タイム」の即興は絶品です。
地元ではキャナビスの糸数ガンジーさんが演って米兵達にも絶賛を浴びていて、筆者らも追随に必死でした。
その甲斐もあって度々のコンサートも好評で、他にジョイントに参加したり大学祭にも度々招待されました。
!(^^)!

* * *

彼らの当コーナー2曲目、当曲を含むライブ盤は上の「ライブ・クリーム」と共に筆者らのバイブルのような存在でした。

ザ・フー、「サマータイム・ブルース」

The Who- Summertime Blues


伝説の野外フェス「ウッドストック」での彼らの雄姿、鳥肌ものでした。
ギターのピート・タウンゼントのアクションが凄くて、コード演奏の際に二の腕を大きく振り回す姿に憧れました。
ギターのT君、その真似を繰り返しマスターするも、その前に何度も指から出血していました。バカですね (*^^)v。
Vo.のロジャー・ダルトリ―のマイクを高々と投げるアクションも皆で真似て、自らの頭に落下、やはり痛い目に。
やはりバカですね 。ドンマイ (*^^)v。


栄光のブリティッシュ・ロックバンド、他にも挙げると、
ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、テン・イヤーズ・アフター、ジェスロ・タル、フリー(バッド・カンパニー)、
エマーソン・レイク&パーマー、ユーライヤ・ヒープ、イエス、ムーディー・ブルース、ヤードバーズ、フェイセズ等々、
米国のバンドとはまた随分と違うドラマチックでメロディアスで豊富なアイデアの引き出しに富んだ個性派揃いでした。

ツェッぺリンのドラマー故ジョン・ボーナム氏同様にフーの雷太鼓キース・ムーン氏もまた早逝。
クリームのジンジャー・ベイカー氏も先日亡くなったと、アトリエ生徒のHTさんから知らされました。
また先だって特集した我が国の宝ブルー・コメッツのジャッキー吉川氏も最近亡くなられました。
筆者に音楽の喜び、ドラミングの醍醐味を教えてくれた皆様に感謝と共に冥福をお祈りします。
合掌

また、筆者以上の高齢者となられた彼らが一人も肺炎感染することなく、寿命を全うしていただきたいと願う今年の春です。

* * *

さて、
ビートルズの登場で始まった当コーナー、当長尺特集をやはり彼らで飾り、終わらせていただきます。
実質の彼らのラスト・アルバム(発表順では「レット・イット・ビー」が最後)のオープニング曲です。

ザ・ビートルズ、「カム・トゥゲーザー」

The Beatles - Come Together - Lyrics



いよいよのラスト曲です。
その凄さは筆舌に尽くし難い魅力満載です。
同曲2動画、続けます。
上動画は彼らの解散直前・最後のスタジオでの貴重な場面と、歌詞つきが捨て難く、しかし何と「尻切れ」!

下動画は動画のエフェクト素晴らしく、かつ最後まであるので、どちらも捨て難く・・・。

ザ・ビートルズ、ゴールデン・スランバー、キャリー・ザット・ウェイト」

Golden slumbers/Carry that weight - The Beatles (LYRICS/LETRA) [Original]


メドレー最後3曲目の" The End "迄が含まれているコレで決まりでしょ!

Golden Slumbers/ Carry That Weight/ The End - The Beatles

正に圧巻の「集大成」傑作です。
「なだ・そーそー!( ;∀;)」

* * *

「筆者後記・私感:ブリティッシュ・インベイジョンについて」

彼らの到達点は、20世紀のロック(ひいてはポップ音楽の)の頂点であり、到達点でもあったような気がします。
20世紀音楽はビートルズの誕生と躍進にその開花を見出し、展開し、やがて衰退していったような気がします。

当時を冷静に考えると凄い事で、当時の経済力や発信力等の国力で比較すると、これはもう断然米国の方が絶大で、
そんな中で米国進出を果たし、しかも全米中を席巻。ファンの若い男女のみならず、多くの音楽家をも刺激し、
ロックと言うジャンルを確実で強固なものにし、世界中の無数の若者たちに多大な文化的影響を与えたのです。

もちろん音楽的影響は今日までその後も続いていますが、彼らのように自らの表現に忠実になることは困難な時代です。
現世紀の音楽は彼らを除外して語られるものではありませんし、その多大な影響は今も進行形で連なり繋がっています。
ですが、
インターネットが世界的に普及した今日、ブリティッシュ・インベイジョンのような大きな潮流は生まれ難い昨今です。
とは言え、中身が伴う人々が要求する普遍的な文化的要素が多く含まれていたのなら、或いは今後もあるのかもしれません。

その善悪・功罪は別にして、
かつて世界に羽ばたき君臨した海洋王国の大英帝国はその大海原を超え、北米大陸にも到達・入植。
やがて東洋でもその存在感を高め、インドをはじめ東アジアの多くの国を征服し、植民地化しました。
地球規模の覇権を巡り、明治以降「富国強兵」政策で国作りを推進してきた我が国とも利害がぶつかり、
中国大陸への列強進出のせめぎ合いでは同盟を組んだり、また離反して大戦へとなだれ込んだり・・・。

筆者の稚拙な歴史観はさておき、
現代の国内においては余り語り継がれてはいないような前世期の歴史的な大きな事実・遺産があります。
かつて「ベルリンの壁」が崩壊し、東側の非民主的な多くの国家が追随した歴史の大転換点がありますが、
それは西側(自由陣営)諸国の政治力・軍事力・経済力だけでは決して成し得なかったと言うことです。
「ロック」と「ブルージーンズ」と「コカ・コーラ」の3種の神器が、東側の人々(特に若者)の憧れの文化的存在でした。
その3品は、当時のソ連や東ドイツをはじめ多くの共産主義国家では西側の退廃的文化としてあまねく御禁制品でした。
特にビートルズの「ヘイ・ジュード」は、チェコスロバキアに於いては自由を求めるシンボルとして愛されたそうです。
またジョン・レノンは自らの卓抜した音楽表現を武器に、反戦平和運動にその短い生涯をかけたことでも知られています。
理想論・お花畑頭の非現実的幻想と断定する方々も多数存在することは承知していますが、音楽にはそんな力があります。


先だってイギリスの肺炎感染死者が3万人を超えてしまいました。
今英国はEUからの離脱のブレグジットで混乱の最中にあり、そこへ今回のウイルス感染禍で更に混迷を深めています。
願わくば、近い将来においてこの感染禍を超越し、新たな国作りが始められる時、全盛期のあの大躍進のような、
「ブリティッシュ・インヴェイジョン」が世界の人々に再び到来するような希望の春を迎えて欲しいと願っています。

故郷沖縄のシンガー喜納昌吉の言葉ではありませんが、「すべての武器を楽器に持ち替えよう」を合言葉として、
ピースフルでかつクリエイティブだった「ブリティッシュ・インヴェイジョン」の再襲来を祈る近頃の筆者です。

ちなみに余談ですが、
新世代を代表するグレタ・トゥーンベリさんやマララ・ユズフザイさんらの行動が音楽等の文化的力と合体すると、
未だかつて無い程の大パワーを持ち得るのかもしれません。その時、人類と地球環境は新たなフェーズに突入することが、
出来るかもしれません。
その可能性は秘めていると個人的には思います。

 Since 1964, I was a primary school boy , It was first time to me. 

and even Now.  I'm always so deeply impressed by so many U.K people !


" I'm very sorry for your loss and sadness, Now."

" I'm rooting for You ,   Hang in there !!  U.K "


Born again new BRITISH INVASION !  in our near future !
with peaceful & creative music & culture !
I really really hope so !"


And

Let's kick away & Break Through the  Evil Wuhan Virus Disaster !

Together !!!


v (#^.^#) v


筆者のミニ半生史と化した今回の(長尺となってしまった)特集、もし お楽しみいただけたのなら幸いです。
駄文・長文失礼
<(_ _)>

By  Hideki Toma,  T講師