アトリエ・マイルストンブログ

2020年5月20日水曜日

祝・沖縄祖国復帰特集(その1)

水曜日・曇り 時々 霧雨
平年よりも低気温となりました。

一昨日(月曜日)より、自粛閉所中の学童クラブの開放要件の一部を緩和。
少数ながら新1年生らを中心に、笑顔と笑い声がマイルストンに戻って来ました。
そのエネルギーに満ち満ちた笑顔に筆者らも元気を貰え、やっぱり良いものです。
(#^^#)

*

「ミュージック・ギャラリー(その415)」
「祝・沖縄祖国復帰 特集(その1)」


1回目の今回、故郷オキナワが祖国へ復帰して「沖縄県」となる1972年前後の、オキナワ出身者の曲を集めてみました。
下にご紹介の曲以外にも紹介したい曲ありますが、YouTube上に存在しなかったり、ブロックありで断念した曲多数です。
祖国復帰前、沖縄出身の全国的有名人はごく少数で、プロ野球では広島カープで大活躍した安仁屋宗八投手くらいでした。
なので全国的に認知される歌手などの有名人が出ることは、その当時の故郷の人々にとっては誇りであり、ヒカリでした。

では早速、そんな状況下(米軍施政下)で育った歌手たちの懐かしの曲たちに行ってみましょう。

21世紀(令和)の時代、遠き昭和のこの大ヒット曲を知らない方々も多いかと思います。
戦後16年、復帰前のオキナワから初めて本土デビューを果たした女性歌手の出世作です。

仲宗根美紀、「川は流れる」1961年

「親子ラジオ」と言う米国ポップス100%の有線放送で育った筆者にとって、ラジオ放送から流れてくる邦楽が衝撃でした。
それまで慣れ親しんだ米国ポップスのきらびやかな世界とはうって変わったその暗さは、子供の筆者をも打ちのめしました。
筆者、言葉も知らぬ米国ポップスをごく自然に器楽曲として聴いていたのですが、そこに言葉の意味をも侵入してきました。
「別れ」「死」「悲しみ」と言った幼き筆者には無縁な言葉と世界が切々と歌われ、マイナーと言う和音構成も知りました。
この曲、冒頭の「病葉(わくらば)を~」の言葉からしてもう筆者には謎の世界で、当時でもその意味を知る大人も少なく、
両親にその旨・その意味を尋ねてもちゃんとした答えが貰えずに、何となくはぐらかされたような記憶があります (-_-;)。

そんな中、特に暗い曲の典型がこの曲で、イントロのマンドリンからしてもう暗い絶望世界の入り口に立たされたものです。
なので、当時はその曲がラジオから流れ出した途端に、即刻に他局へと急ぎチューニング・ダイヤルをひねったものです。

でも時が経ち歳月が流れ大人に成長した筆者の帰郷時、とある食堂のラジオからこの曲が流れ出て再びの衝撃を受けました。
タイムスリップしたようなひなびた食堂(でも美味です)によくある古い真空管ラジオのままで、選局不可なのが幸いしました。
幼き頃はただその暗さを遠ざけていた筆者ですが、この歌手の声質とその驚くべき唯一無二の表現法に突然開眼したのです。
単なるマイナーと言う曲調だけでは表現できない歌手の憂いと湿り気を帯びた声質、その独特な音程の取り方に驚きました。
言葉のラ行に乗せる巻き舌と、語尾ロングトーン時の緩やかなグライド歌唱法(上昇下降グリッサンド)が魅力で独特です。
そして詞の内容もYouTubeの動画で初めてしっかりと知り、暗さだけではない3番詞の「明日は明るく~」に救われました。
けだし昭和の世が生んだ傑作名曲。
他にも西田佐知子の「アカシアの雨に打たれて」や、「カスバの女」など多数ありますが高齢者の筆者、今や大好きです。
(#^^#)


しばらくの時を経て、ベトナム戦争激化中の騒然とした基地の島から、爽やかな歌声が登場しました。
艶やかな歌声と、長い黒髪と浅黒い肌のキラキラした笑顔が全国のアイドル・ファンを魅了しました。
( 筆者注:動画画面内の「この動画はYouTubeで御覧ください」をクリックしてご視聴下さい。)

17才(南沙織)1971年(生唄)


余談ですが、生放送のステージ後方上手に、筆者の大好きなシモンズの二人の姿も垣間見られます。



他にもヒット名曲多数あり投稿を試みましたが、著作権者によりその多くがブロックされていて断念しました。
次の曲は当時のCMで流れていたもので、大好きだった「シモンズ」判と共に心に残る柔らかな歌唱が秀逸です。

明治チェルシーの唄 南沙織


他にも「潮騒のメロディー」「色づく街」「哀愁のページ」等々の名曲多数ですが、ブロックにて転載不可。残念。
ご興味のある方はYouTubeにてトライしてみてください。
いわゆる「アイドル歌手」のジャンルながらも、その爽やかさは一過性で終わるには勿体ない世界だと思います。

「脱線昔話(その1)

実は筆者、彼女とはほんの数回の面識があります。
復帰前・デビュー前の那覇で、市内で活躍中の人気先輩バンドのコンサートで、友人らから紹介されました。
当のご本人は今や覚えていないと思いますが、市内の国場ビルで催されたロック・コンサート会場等ででした。
「今度、デビューするんだよ」との友人の言にロック漬け状態の筆者、「歌謡曲なんて」みたいな反応でした。
その後、彼女の全国デビュー直後(大ヒット連発中)には、筆者の上京後にも都内で2度ばかり遭遇しました。
当時、兄の彼女の住む東中野のマンションの一室で、兄の彼女の親友として紹介をされましたが、お辞儀のみ。
「確かどこかで会ったような?」みたいな怪訝そうな表情の彼女、「有名芸能人」としての距離を感じる筆者、
無表情・無反応のままにて兄ら申し出の「共に!」食事外出の誘いをすげなくクールに断ったものです。
今となっては「素直が一番!」でした。

そんな南沙織さん、シンシアとの愛唱でも知られていましたが(吉田拓郎の歌にもなった)、身内間では、
「シンティア(家族名ポール)」と発音し、呼ばれていました。
その当時の筆者の彼女に対する第一印象は「顔、チッチャ!」で、今当時の映像を再現すると黒くもあり。
故郷の地元では当たり前に感じていた健康的浅黒さではありましたが・・・但し誤解なく、褒め言葉です。
<(_ _)>
人気持続中の現役中にもかかわらず、カメラマンの篠山紀信氏と電撃結婚、早期引退が惜しまれました。
今は息子さんの愛されキャラの「篠山輝信」君が、素直なキャラクターで八面六臂の活躍をしています。
「チバリヨー!」
!(^^)!

* * *

さてセンセーショナルな小さな大物兄弟たちが故郷を旅立ち、華々しく本土デビューを果たしました。
彼らもまた本土デビュー前に地元のTV局の公開放送の現場で、その非凡振りを目の当たりにしました。
「筆者注」
曲終了後(1'20"~)に、謎のバンド演奏が抱き合わせ販売のように付いています。無視して下さい(-_-;)。

フィンガー・ファイブ、「恋のダイアル6700」(アテレコとダンス)
Finger 5, " Love call 6700 " (1974)

日本国中の歌謡ポップス・ファンをアッと言わせた晃君の比類なきハイノート・ボイス、驚異的でした。
さすがに日本のジャクソン・ファイブと形容・称賛されたことだけはある才能豊かな5人組兄妹でした。



作曲が共に筆者の敬愛する元ブルコメの故・井上忠夫氏だけあって、そのポップス感覚は群を抜いていました。

フィンガー・ファイブ、「学園天国」(生唄とダンス)

一番ちっちゃい末娘の妙子ちゃん、2'10"辺りで転んでいましたね。
ドンマイ
!(^^)!


この人のデビュー曲にして大ヒットとなった実力派歌手の出世作です。

桑江知子、「私のハートはストップ・モーション」1979年

残念ながら俗に言う「一発屋」となりましたが、今も地道に現役歌手として佳曲を歌い続けています。
但し、残念にもアダルトな歌手の活躍する場が地上波TV等のマスメディアには無く、露出度は極小です。
「チバリヨー!」

* * *

さてお次は大人ムードの歌謡曲で・・・。
沖縄出身の歌手ではありますが、米国発のベンチャーズと共に古都「京都」を歌い、大ヒットを飛ばしました。


渚ゆう子 - 京都の恋(アテレコ合成)


大ヒットにより、その年のレコード大賞の候補にもなったそうですが、作曲者が外国人との理由で玄関払いの憂き目に・・・。


当時のアイドル歌手時代にアダルトなムードで、大人達を納得させて艶やかさが秀逸です。

渚ゆう子 - 京都慕情


オリジナルやカバーを含め京都を歌った曲多数で、その憂いを帯びた艶やかな歌声は唯一無比です。

* * * * *

「脱線昔話(その2):京都・修学旅行の一夜」

今を去ること半世紀近くも前のこと。高2の筆者、修学旅行に参加。およそ半月にも及ぶ本土各地(北限は日光)の観光を行いました。
( その当時、本土への渡航にはパスポートが必要で、左翼学生運動家の来沖や地元学生らとの交流等の阻止で厳しい制限が設けられ、
その米軍方針のあおりで、修学旅行以外での若者の渡航は滅多に許可されず、唯一修学旅行だけが本土旅行の機会でもありました。)

京都での夕刻、地元の若者二人と仲良くなり、空手の話題が出ました。筆者友人が見栄を張り「僕らは空手の達人」と大嘘をつきました。
面食らう沈黙の筆者に「彼は剛柔流の三段」。そして「僕は鉄漢流(だったかの出任せ)の四段」とほざき、彼らを一気に惹きつけました。
「そりゃ凄いわ!なら見せてもらえん?」彼らの喰いつきに友人H君何を思ったか困惑する筆者に演舞を披露するようのたまわりました。
「お前、出来るさあ。ちょっと見せてあげて。」筆者に小声で耳打ちするH君。ためらう筆者に二人から大きな催促の拍手が上りました。
筆者、中3の2学期に一人部員の友人に頼まれて臨時部員をした経験があり、その時に覚えた演舞をH君に披露したことがありました。
( 脱線中の脱線話になりますが、その結果危ぶまれていたアメリカン・スクールとの交流会にめでたく参加することが出来ました。)
『この野郎~、覚えていろよ~』筆者は内心では立腹つつ、クールさと懇願の両方の表情のH君の顔を立たせるべく意を決しました。
『エエイ、どうにでもなれ!』『旅の恥はかき捨て』とばかりに、筆者は初対面の彼らに久々の空手演舞を披露してしまいました。
彼らから湧き上る大きな拍手。それもそうです。筆者のはそれなりに本格的な演舞で、続いて自己表現力旺盛な彼が進み出ました。
「前座の次は、真打ちの私めが披露いたしましょう。」等とほざき加え、得意のジャッキー・チェン流のカンフー風を始めました。
彼らからまたもや大きな拍手。「空手でも流派で随分と違うもんやな~!」と大喜び。ここまでで終わっとけば良かったのですが。

純情素朴な地元の男子二人、筆者らとは同年齢で、高校中退後の今は手描き友禅染の職人を志して見習い中だとのことでした。
これから中学時代からの友人二人と合流予定で、共に筆者らを市内観光へ案内すると誘われ、筆者らも同意し要望を伝えました。
合流したのは筆者らと同級の高2男女、女の子は当時流行りの真ん中分け長髪の色白切れ長目にミニスカートのいで立ちでした。
職人見習いの二人、先程披露の空手が凄かったと物凄くアピール。ミニの彼女も「是が非でも見たいわあ~。」と熱い視線です。
すっかり気を良くしたH君。その要望にあっさり二つ返事。再びの空手演技(1人はまるで嘘八百流)を披露する羽目となりました。
『もう勘弁して。』筆者はH君の嘘に付き合い、2度も「旅の恥はかき捨て」を行ってしまった訳ですが、これがまた受けました。

その当時、京都は大阪と共に関西ロックの発祥の地で、筆者らは地元のバンド演奏が聴けるライブハウスをと所望した次第です。
合流した地元の若者四名、筆者らのホラ・エセ空手の演技披露後は目を爛々と輝かせ、筆者らの要望を快く承諾してくれました。
「いつもは怖い思いしてるんよ。でも今夜は頼りがいのある空手の達人二人が用心棒してくれはるし。嬉しいわあ~!」との言。
傍らのH君「大船に乗ったつもりで任せなさい」と胸を張り、一方小声で「チンピラに絡まれたら逃げよう」と筆者に呟きました。
H君の大見栄・大嘘のせいでとんでもなく大変なことになってしまいました。大いに楽しむはずの京都の夜がこれでは台無しです。
「いいか、ちゃんと聞いとけよ。俺が前なら、お前は後ろ。俺が左なら、お前は右。全速力だからな。」と小悪党そのものです。
「お前、ひどい!」筆者らの小声の困惑逃走相談話しを尻目に、地元の四名は目的地に向かってもう無邪気に闊歩し始めました。
そこは「四条」だったかの賑やかな繁華街だそうで、怖いお兄さんたちも大手・大股で闊歩している危険な場所だとのことです。
人通りの往来多い繁華街へと足を踏み入れた筆者ら一行六名、地元の四名の案内を先頭に立てて内心恐々で前方を注意深く観察。
「さすが、さっきまでとは目つきが違う。まるで猛禽類みたいやし。」と誤解タップリなお褒めの言葉まで頂戴いただきました。
幸いにも!、
その晩は幸いにも強面の怖いお兄さんらに出くわす事もなく、無事にライブハウスへと到着。京都のバンドを堪能できました。
ライブがはねた後の二軒目の喫茶店で住所等交換、初体験の京都弁女子の柔らかな物言いに話しの中身をつい忘れたものです。

長かった修学旅行中、今想い返すと最も楽しかった京都での思い出。
正月には全員からの年賀状が届き、しかも翌年にはお盆休み中に職人見習いの二人がパスポート取得して来沖してくれました。
その際に、「二人とも空手の達人」だと言うのは実は真っ赤な嘘だったと告白して、新たな笑い話に付け加えられたものです。

あれからおよそ半世紀、上京後の度重なる転居で住所も失くし連絡不可な今、彼らのことを時々思い出す今日この頃です。
話し口調がスローで穏やかなT君ら四名(特に女子)の声が、今や遠くなった過去の記憶室の中から時折 聞こえてきます。
(#^^#)

長文となってしまいました。お読みいただいた方、ありがとうございます。

* * * * *

「基地の島からの台風、オキナワン・ロックの台頭、その栄光と衰退」


ベトナム戦争が泥沼化しはじめた60年代中後半から、基地の島オキナワでその誕生の産声を上げました。
戦地へと旅立つ、または一時休暇の荒ぶる兵士たちを相手に四つに組み、その実力でねじ伏せていました。
そんなきな臭い時代、そのサウンドを聞きつけた本土の音楽界から注目を浴び、全国デビューをしました。
本土生まれのロック界とは一線を画したスピード感溢れるヘビー級サウンドが、熱狂的に歓迎されました。

紫、「ドウ―・ホワット・ユー・ウォント」

Murasaki (紫) - Do What You Want


ヒッピー文化を背景としたカウンター・カルチャー的歌詞も、多くの米兵らからも支持されました。
間奏後半の4ビートが堪らなくお洒落で、当時(今でも)の本土製ロック・バンドでは到達不可能な領域です。
彼らの本土ライブでは、国内にこれほどの外国人がいるのかと驚くくらいの若者男女が押しかけていました。
また彼らの噂は遠く欧州にも飛び火、当時では異例なほどのレコード・セールスを記録した現象もあります。
ただ筆者個人的に、彼らの地元での生演奏に数多く接している耳では、レコードの音は大人しく不満でした。
東京の音作りは総じて歌謡曲風なミキシング・バランスとなり、彼らのパワーや音質再現が不足してました。
「残念」


本土で大成功を納めた「紫」に続けとばかりに、破天荒なワイルド振りでならした彼らもメジャー・デビューを果たしました。
圧倒的でスリリングなギター・サウンドと常識を超えたパフォーマンスが、明日をも知れぬ米兵らに熱狂的な支持を得ました。

コンディション・グリーン、「ハート・テイカ―」

Condition Green -" Heart Taker (on BC Street) "



彼らのデビュー・アルバムからもう1曲。

コンディション・グリーン、「トリック」
Condition Green, " Trick "

その当時、国連で主催された「ジャパン・イヤー」の日本代表に選出されたのが「紫」と彼らの2グループでした。
数多くの国内ミュージシャンの中からその2グループだけが太鼓判を押され、C.Gの面々が渡米し演奏を披露しました。
国連のみならず、ディズニーランドにも招聘され、昨今の京都橘マーチングバンド同様に大絶賛を浴びたとのことです。
またL.Aの超有名ライブハウスでの演奏も評判を呼び、当時のキッスのメンバーから来日公演の前座にも抜擢されました。
実際にはやはり色々な圧や思惑もあって、国内招聘者側からその共演を拒否されてしまうと言う不幸にも見舞われました。
「残念」


「脱線昔話(その3)」

在沖縄米軍、とりわけ海兵隊の面々からの人気を誇る彼らでしたが、不幸にも本土でのコンサート構成が不発。
その後は地元沖縄での熱狂的・カリスマ的な米兵人気とは裏腹に、本土での評判は思わしくなくなりました。
復帰前のオキナワで初ライブを敢行した当時のロック界のドンが大ブーイングされ、前座の彼らに激しく嫉妬。
現場目撃の友人談では、演奏開始直後に米兵全員から「帰れ!」、C.Gには「戻れ!」コールが噴出したとの事。
本土デビュー後にも彼が有象無象の圧をかけたことは地元では有名な話し。それらもあって早々と帰沖しました。
当時の音楽雑誌にも彼らを意図的に誤解・貶めたりする記事が多くなり、彼らの人気は急激に萎んでいきました。
何10年か後、やはりデビューした沖縄のダンス・グループが、やはりまた同じような圧で業界から干されました。
その時はもまた芸能界・芸能事務所のドンの様々な妨害工作によりグループは最盛期を直撃され、一時期・低迷。
そのグループ低迷中に抜けたメンバーの一人が、筆者の高校の同級生女子の息子さんでした。残念な結果です。
その後、昨今めでたく人気が回復した彼ら、その類いまれな歌唱力とダンス・パフォーマンス等で活躍中です。
「チバリヨー!」
!(^^)!

* * * * *

「東京残留組のダイナミック3姉妹」


さて復帰前に米軍に鍛え上げられ育ててもらったのは、何もロック・バンドの面々だけではありません。
彼女たちもまた基地の島・基地の街ゆえの環境下で育ち、こんなにも凄い感性と技術を身に付けました。
その早口・巻き舌、ただ単に歌が上手いだけでは表現できないアメリカン・ポップスならではのリズム感が肝です。

boogie woogie bugle boy / EVE


「イヴ」こと新里三姉妹もまた復帰直後に「アップルズ」と言う名前でデビュー。
当時流行のディスコ・サウンドで売り出し、その後はスタジオ・ミュージシャンとして何千本もの録音に参加しました。

リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア EVE


一言、正に圧巻!
彼女らの隙間バックで満面な笑みを浮かべピアノを弾くのは、彼女らの良き理解者の故・羽田健太郎氏です。
今世紀、TVの音楽番組も衰退し、彼女らのような本格的な本物のミュージシャンらが活躍する場所もなく、
ジャリ―ズ軍団や団体アイドルグループが地上波テレビを謳歌している様は、高齢筆者には虚しい限りです。

こんなにも素晴らしいパフォーマンス(歌と踊り)を披露していた彼女らの片鱗だけでも見られるYouTube様には大感謝です。
願わくば、歴史の向こうへと消えつつある彼女らの名歌唱がネット上にいつまでも末永く残り、光り続けられることを・・・。


以上、米軍施政下のオキナワに育ちながらも、沖縄復帰前後(1970~80年頃)に本土デビューを果たした人々の一部を紹介しました。

* * * * *

「筆者後記:沖縄祖国復帰に寄せて(その1)」

今を去ること48年前の1972年、戦後 米国統治下のオキナワが返還され、念願の祖国日本への復帰を果たしました。
故郷の島々は琉球王国の昔日に大陸・支那の文化的影響も受け、明治政府の琉球処分・廃藩置県により沖縄県となり、
その後の大戦で連合軍の史上最大の侵攻を受け、敗戦後の講和条約にて本土を離れアメリカの統治下に置かれました。
その間、米軍は地政学的見地からこの小さな島に膨大多様な基地を構築、その経済下で戦後沖縄は発展してきました。
朝鮮戦争時にも出撃基地として増大した基地はその後のベトナム戦争介入により更に戦略基地として強化されました。
そんな戦時下特需にての基地経済で発展しつつも、基本的人権は無視され、多くの悲劇が住民らにもたらされました。
先の大戦で多大な人的被害を被ったこの島は、今度は加害者の間接的協力者として基地機能に組み込まれもしました。
戦後、祖国日本は著しい経済的発展を成し遂げ成長を続けるも、戦争に翻弄された島にその恩恵は届きませんでした。
度重なる米軍の事故で、小学校にジェット戦闘機が墜落、児童ら合わせて住民18名が死亡する大惨事も発生しました。
そんな中、基地従業員らで組織された労働組合を中心に「祖国復帰運動」が盛り上がり、島ぐるみでの闘争が激化し、
占領下で度重なったタクシー強盗殺人や性被害や交通事故の米兵犯罪の無罪放免判決に住民の怒りが蓄積されました。
そして1970年、筆者高校1年在籍時、
コザ(現沖縄市)市内で米人による交通事故をきっかけに住民らに鬱積された怒りがついに爆発、大きな暴動へと発展。
深夜、集まって来た住民らが通りがかった米人車両を実に88台も襲って放火。いわゆる「コザ暴動」が発生しました。
幸い死者こそ出ませんでしたが、米憲兵(MP)250名・琉球警察500名が朝迄に鎮圧。大きな衝撃が琉米日に走りました。

「筆者注:ご参考までに」

筆者、転載を試みるもブロックが施されていて不可能な動画。以前は問題なしでしたが。
下記のYouTube上の動画2点、「コザ暴動」当時の貴重な記録写真が多数掲載されています。
上の琉球アンダーグラウンドは、沖縄在住の英米のアーチスト2人によるユニットの作品。
ベースとなっている音源は琉球古典の「かぎやで風」と言う祝典曲で、アレンジが秀逸です。
下は、上で紹介のC・Gの同曲ですが、労組の復帰運動の様子や、コザ暴動の動画も有ります。
興味のある方は、YouTubeにて下記検索の上、ご覧になってください。

Ryukyu Underground - Koza Riot

Condition Green - Heart Taker (on BC Street)


しかしこの事件が契機となり、日米間で返還交渉が加速。当時の佐藤栄作首相とニクソンン大統領 間で合意されました。

また沖縄の人々に対する差別的処遇は何も米軍施政下だけに限ったものではなく、日本本土との間にも存在していました。
それは長年の生活習慣や言葉の問題等が主な起因で、当時 沖縄出身者に対する本土からの偏見や差別は相当なものでした。
筆者も度々経験しましたが、アルバイト募集で電話をするも、沖縄出身だと言う理由だけで面接を断られたりもしました。
でもそれには統計的にも一理あり、復帰前に本土へと渡った多くの先輩らの作ってきた実績と評判がそうさせていたのです。
故郷の先輩らは「責任感欠如(遅刻欠勤)」「言葉遣い(タメ口)」「直ぐ辞める」等の悪弊蓄積が現実にあったがゆえなのです。
筆者もそんな悪い評判を払拭すべく尽力したもので、そのおかげで例外的な正社員登用を誘われたこと多数にのぼりました。
そんな南国風なラテン的気質も徐々には改められて、今では地元の結婚式等もちゃんと時間厳守で執り行われるそうです。
本来は当たり前の話しですが、故郷では長年「オキナワ・タイム」と言う悪習があり、1~2時間ズレは全然平気でした。
(-_-;)

また本土との格差に関しては体力的なことも存在していたもので、高校野球を例にとると復帰以前にはその差は歴然でした。
それが徐々に改善され、指導者らの努力もあって今では互角に戦う力を身に着け、全国優勝も成し遂げるようにもなりました。

芸能・音楽に関してもご存じのように、今では全国区の人気と実力を有する歌手やアーチストらをそれこそ多数輩出しており、
彼らに共通するものは、昔日より「芸能の島」としての伝統が無意識に活かされており、民謡にも根ざしたリズム感が秀逸で、
戦後に培かわれたアメリカの音楽文化の影響をも吸収し、今では百花繚乱のような個性の持ち主たちの島々となったようです。
但し、商業的見識に結構 疎いような人々も多くいて、豊かな才能に恵まれつつも開花できずに消え去る個性らもまた多数です。

残念なことに、
本土のメジャーと言われる地上波テレビを中心とする音楽界が供給する音楽は、多分に限定的な若者中心の世界のみであり、
幅広い年齢層や多様なジャンルを提供してはおらず、そのレベルは海外に比べても低く、従って需要側も育ってはいません。
需要側がマーケットとして商業的数量に達していない現状では、発信量の劣る個性的音楽家らに活躍の場は少ないものです。
願わくば、
これら故郷の音楽家らが東京と言う単元的地上波音楽界を超えて、ネットを積極利用して表現活動を行ってもらいたいものです。

* * *

来たる6月23日は「沖縄慰霊の日」です。
「鉄の暴風」と言われた「沖縄戦」から75年、
念願だった「祖国復帰」からは今年で早48年、
筆者が生まれ育った頃の故郷オキナワには無かった「基本的人権」も遅まきながらも得られるようにもなりました。
あれから48年、祖国日本と県となった沖縄は共に豊かになり、世界中から多くの人々が訪れるような国になりました。
昨年は島を訪れた人々、実に1千万人を超えたとのことです。「癒しの島」として多くのリピーターも生み出しています。

とは言え、
今年は国難的ウイルス肺炎感染禍にて、経済的基盤を観光産業にその多くを委ねている故郷は正に苦境の真っ只中にあります。
かつて地獄の戦場となった故郷は地を這って裸一貫で這い上がり、祖国復帰を果たし、その恩恵を享受することができました。
我が故郷沖縄、文字通りの「沖合に浮かぶ縄ヒモのような小さな小島群」の人々に再びの厄災が情容赦なく降り注いでいますが、
今まで幾度も這い上がってきたように逞しく生き延びて、先達たち同様に命の喜びや尊さを表現していってもらいたいものです。

(舌足らずながら、本日はこれにて。後日追記あるやも・・・)

By T講師 こと 当真 英樹