アトリエ・マイルストンブログ

2020年8月17日月曜日

75年目(!)の「終戦記念日」

月曜日・快晴・猛暑
本日より学童クラブが再開され、早朝から賑やかな笑い顔が静かだった屋内外に戻ってきました。
(#^^#)


「ミュージック・ギャラリー(424)」

「戦後75年目の終戦記念日特集」


この季節になると毎年筆者の脳裏に浮かび上がってくるのが、遠き高校生の頃に聴いて唄ったこの古い曲。
但し、YouTubeにある唯一のオリジナル録音盤がブロックを施されているので、カバーを取り上げました。
その当時の「五つの赤い風船」らは、米英のロック狂いだった筆者にとって、一幅の清涼剤の存在でした。
但し、歌詞は従来の歌謡曲等とは異なり、色々と考えさせてくれる社会的内容で自己の肥しとなりました。

まぼろしのつばさと共に cover [歌詞・英訳付き] song by martin

English translation by Matthew Smeed.

オリジナル曲に「特攻隊」の記録映像を加えた動画があり、そのアップを企てるも、残念ながらブロック有りで断念。原曲の淡々とした表現に比して、結構甘過ぎセンチに聞こえてしまいますが、動画の映像で選ばせていただきました。現在、YouTube上には、沖縄の周辺海域で散った無数の「神風特攻隊」の記録映像が存在しています。涙・涙です。死者たちの姿こそ見えませんが、その阿鼻叫喚の時空を体験して散った英霊たちに最大の尊敬の念を禁じ得ません。

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「五つの赤い風船」と言えば、もうこの曲こそ彼らの代表曲でしょう。半世紀ほど経った今でさえ何一つ色褪せることなく、出会ったその当時のままに筆者の心を鋭く掻きむしってくれます。YouTubeにオリジナルの音源がアップされているのを発見!喜び勇んで拝借を試みるも、何とやはりブロック有りでした。と言う訳で、結局は以前に代用として拝借したことのある原曲アレンジに最も近いカバー盤を再度お借りしてきました。
「日本」ではなかった頃のオキナワで、この詞の世界は羨ましくて遠くもあり、若き筆者にとっては痛過ぎました。正にこれから大人になろうとする筆者の「アイデンティティー」に関わる「フォークソング」ならではの世界でした。
「遠い世界に」/ やなわらばー(カバー)

著作権者の権利保護も確かに大事ですが、ネット上にその原曲がない事は文化にとって大きな損失です。興味のある方は是非YouTubeを検索して、お聴きになってください。・・・

最後に・・・
「涙(ナダ)そうそう」、夏川りみ

高齢となった筆者の母にも、先の大戦で亡くなった家族・姉弟らのお迎えが近づいているようです。
* * *
「筆者後記:75年目の終戦記念日に寄せて・・・」
筆者はもちろん戦争経験のない戦後っ子ではありますが、生まれ故郷の南の島で「戦争の残り香」を嗅いで育ちました。国内で唯一の地上戦となって地獄絵図が展開された南の地に、その節々に「戦場の記憶やツメ跡」が残されていました。一歩近所の草むらに分け入れば、土の上に残された夥しいほどの赤錆びた無数の、色々な形の弾丸は日常の光景でした。
低学年時、半ズボンの左右ポケットいっぱいにその弾丸を拾い、家に持ち帰り石油で洗浄、その後紙ヤスリで磨きました。丸い先端のライフル弾、先が鋭く尖った機関銃弾など、筆者の新しい趣味はその内、筆者の机の大半を占領し始めました。ある日のこと、赤黒く汚れ破れ始めたポケットのズボンを幾度か洗った母が、筆者の弾丸の収集を止めるよう咎めました。「この弾は鉄砲から発射されたもので、その先には狙われた人がいたんだよ。」ピカピカに磨かれた弾丸を指さしました。「もしかしたらそれが命中した人は死んだかもしれんのよ。いっぱい血が出て、痛がって死んだのかもしれないんだよ。」「明日、捨てるからね。その前にお清めのお祈りをしてからにするさあ~。」筆者は収集を諦めるしかありませんでした。成人後に詳細が判明し、那覇市内では残留狙撃兵らとの戦闘が各所で行われたとの米海兵隊の記録資料や映像があります。その中には筆者の知るごく近所での交戦の映像資料や、筆者が通っていた中学校での戦闘場面なども多数残されています。
また加えて、赤錆びた砲弾や手榴弾や擲弾筒も、それこそあちこちの丘の岩陰の奥にはまり込んで、ボロボロの地層を刻んでいました。太古に隆起した元サンゴ礁の大きな岩山の下には天然壕があり、戦時には住民らが避難していたと言う場所もありました。その中にはやはり「戦争遺跡」とでも呼べる無数の生活道具や砲弾が散乱していて、米軍の専門家が撤去に来ていました。やはり近くの丘の上の草むらと岩陰の一角で、戦後の遺骨収集の際にはこぼれた小さな頭蓋骨を見つけたこともあります。
小中学生時代にいつも泳ぎに行っていた市内の海岸の砂の中には、これまた夥しいほどの黒色火薬の粒が混じっていました。それらの粒々を友人らと共に集めて、乾いた防波堤の上に並べて火を点けると、真っ赤な炎が一瞬にして立ち上ったものです。
兵器や武器が好きで、その周辺物(ヘルメットや弾帯等)の収集を始めた小学生の筆者、戦争に関する書物も読み始めました。そして、この生まれ育った小さな島がつい20年程前にとんでもない厄災に見舞われて、多くの命が失われたことも知りました。その興味が高じて、近所のオバーらに戦争中の話しをねだったりもしたものです。「ねえ、どうだった?怖かった?」と・・・(筆者の両親は沖縄戦未体験で、父は満州・シベリアで抑留、母は幸運にも疎開船で宮崎県に避難することができました。)オバーらは最初は筆者のような子供を相手にせず、「忘れた。そんなこと聞いてどうするねえ~?」との反応ばかりでした。でも執拗にねだる馬鹿な子供に根負けしたオバーは、潤んだ目と震えた手を交えて、少しずつ戦争中の記憶を語り始めました。家族と南部へと逃れる際(攻撃回避のため夜間に決行)に、近くで不発弾が爆発、その騒動で家族と離れ離れになったとの事。その爆発音で米軍の集中砲火を浴び、多くの避難民が倒れ、それまで手を繫いでいた我が子を見失ってしまったとの事です。オバーの話に筆者は震えあがり、戦争の恐怖を身近に初めて知りました。「ダー、どこに行ったか、どこで亡くなったか、もう分からん。今も見つからん・・・。」オバーは遠くを見つめていました。「だから私は南部に行くのは今でも好かんわけ。あっちの草むらかこっちの岩陰かって、子供らの死に場所探すわけさあ~。」「夫も防衛隊(徴用)に取られて、帰って来なかった。どこでどう死んだのかも全然分からん。」オバーが付け加えました。オバーはお茶を一口すすり、「ごめんねえ~。私ひとり歳とって。」「平和な時代に生んで貰って。あんたは幸せさあ~。」
そのオバーも今はもういません。あの世で生き別れた夫や子供らに会えて、天国で幸せに暮らしているといいのですが・・・。

戦後75年。平和を甘受してきた世界が今また崩れ始めようとしており、周辺にはあらゆる驚異が存在しています。「平和ボケ日本」のままで居られる訳もなく、「お花畑」思想のままを周囲が許してはくれません。記したいこと、いっぱいあり過ぎて、今回はここらへんにて留めておきます。またの機会を見つけて。
無数の地上戦の犠牲者、無数の洋上(海底)の犠牲者のご冥福と、遺族らの平安を心から祈るのみです。「鎮魂・慰霊・合掌」( ;∀;)
・・・
By T講師(あれから75年の歳月が流れ、戦後っ子の筆者もまたいつしか高齢者の仲間入りを果たしたようです)(少数となった戦争体験者の話を直接聞いた者の一人として、その伝聞を記したいと考えています。)
「平和な時・場所に感謝」

(*^^)v