アトリエ・マイルストンブログ

2018年12月3日月曜日

クイーン人気、大復活

月曜日・曇り(一時 小雨)、温暖
アトリエ定休日

今回もまた昨今恒例の音楽ブログとなっています。
ご容赦。

* * *

先週、油絵を製作しているMSさんが来訪、開口一番で筆者に言いました。
「ボヘミアン・ラプソディー、早速 行って来ました!いやー、非情に良かったすよ!」
そして昨日、先週日曜に続いて来訪のMSさん開口一番に筆者に尋ねました。
「ボヘミアン・ラプソディー、見に行ってきました?いやー、人気爆発してますよ!」
フットワークの良いMSさんとは違い鈍足な(多分、映画館には足を運ばない)筆者、まだ見てはいませんが興味津々です。
妻のM先生の方も、ネット英会話での海外各国在住の講師陣らの授業内容でも、その映画の話題で持ち切りだそうです。

てな訳で、今回の特集となりました。

「出張ミュージック・ギャラリー(その340):特集:クイーン人気、大復活」


今回の当コーナー、今、巷で話題の映画「ボヘミアン・ラプソディー」について、遅まきながら取り上げさせていただきました。
その異例なほどの熱狂ぶり等、筆者の疎い外野解説は止めて、TVニュース番組の一部をYouTube上より まんまお借りしました。


以上、先般放送されたテレビ朝日の夕刻のニュース番組内特集での同映画と主人公のクイーンの紹介のシーンでした。
早逝したヴォーカルのフレディー・マーキュリーの半生を中心軸にした映画だそうで、世代を超えて評判になっているとの事です。
映画タイトルが彼らのヒット曲名で、「クイーン」でも「フレディー」でもない点が映画の肝らしく、含蓄のある題名との事です。
となると、有体に言えばボヘミアンは故郷やバックボーン損失者みたいな意味合いで、ラプソディーは狂詩曲と訳されるように、
フレディー自身の生い立ちや、その後の成功者としてのバンドの名声や苦悩、メンバーたちとの関係等が描かれているのではと、
映画館には足を運ぼうともしない筆者なりに想像しつつ、DVDの発売までクイーン人気の嵐をやり過ごすことになりそうです。



ここ1~2ヶ月
YouTubeのお勧め欄にも彼らの名曲の数々が頻繁に登場、つい誘われ見ると懐かしい空気感を伴って筆者の耳を襲いました。
1970年代に入り、筆者がのめり込んでいたロックが世界的に変質・衰退し、世間はディスコ時代に突入。
米国発ではドゥ―ビー・ブラザースやキッスで、英国でもパンク・ロックと言う猥雑で稚拙なバンドが台頭。
筆者なりに感じていたロックの匂いや味が変貌、「洗練(ポップ化)」と「怒れる自己陶酔」の二極分化が生じ、
筆者自身も音楽に対する熱いほどののめり込み度が衰え始め、疲労・倦怠・虚脱感を感じ出したちょうどその頃、
元々ロック臭の希薄なクイーンがそのロック度を更に薄めることで広く支持され、世界的スターへと昇りつめました。
そんな時代の彼らの名曲・代表曲の一つを取り上げました。
それまでのロックミュージックにはなかったこの底抜けに明るい清涼感や幸福感、たった一度で脳裏に焼き付きました。

クイーン、「アイ・ワズ・ボーン・トゥ・ラブ・ユー」
Queen ," I Was Born To Love You " with Lyrics ,1985( Remade in 1995)



次の曲もまた筆者のお気に入りで、あのレディー・ガガの名前の由来にもなった傑作ポップスです。
今でこそ存在感の薄いラジオに対するフレディー・マーキュリーの愛情が滲み出ていて、名曲です。
題材としてのラジオは古今東西の多くのミュージシャンに多数取り上げられていて嬉しい限りです。
バグルスの「ラジオスターの悲劇」コアーズの「ラジオ」、国内では徳永英明の「壊れかけのラジオ」等、
ラジオにまつわる曲は哀愁を感じさせる名曲多数で、真空管ラジオ育ちの筆者としても嬉しい限りでした。

ではフレディー晩年(!)の輝き、同年同日の伝説のライブから2曲続けてご堪能ください。

QUEEN, " Radio Ga Ga (1984)" , Live in LIVE AID , at Wembley London 1986

*
クイーン、「伝説のチャンピオン」(1977年)
QUEEN, " We Are The Champion "Live In LIVE AID , at Wembley London 1986

言葉の説明は要らぬ伝説のライブ、お楽しみいただけたのなら幸いです。

R.I.P (Rest in Peace ) Freddie Mercury (1946-1991)
沢山の愛を振り蒔き、その愛に死んだ男、フレディー・マーキュリーよ安らかに・・・。
21世紀の今、あらためて・・・


「クイーン登場の思い出」

思い起こせば40年程も前、第一次クイーン人気が世界的に沸騰・爆発する直前のフィルム・コンサートの様子が脳裏に蘇ります。
時は確か1974年、場所は中野サンプラザ、当時では珍しいフィルム・コンサートが催され、そこで彼らの姿を初めてみたのです。
来日する大物・外タレが増え始めた頃とは言え、名だたるロック・バンドの来日はまだ希少で、動く映像には飢えていた時代です。
当時では貴重な未・来日の英米のロッカーたちのライブ場面が、大音響で見られるとあって会場はほぼ満席状態の盛況ぶりでした。
但しその日の会場は通常のロックとは違う雰囲気で、ちょっと場違いな感じの十代後半の女子たちの一群の姿が目立っていました。
当時のロック女子のいで立ちと言えば、ストレートかベルボトムのジーンズにチェックのコットン・シャツ姿が多かったものです。
またフォークロア志向の女子は、手染め風バンダナに花柄プリントのロングスカートやパンタロンが主なマスト・ウェア―でした。
そんな中、この一群の女子たちは少々真面目風(失礼)で、ハンドバッグやカメラまで持参していて周囲に溶け込めていませんでした。
「何か芸能界のアイドルでも出演するとでも勘違いしてるのかな?」「さあ、何でだろう?」周囲からそんな声が聞こえてきました。

英国のクリームに始まり、レッド・ツェッぺリン、ディープ・パープル等、未だ見ぬ大物たちに続いて、新人バンドが紹介されました。
今まで比較的静かだった会場がまるでライブ・コンサートかのように突然騒然とし、聞き慣れぬ黄色い声が会場中に響き渡りました。
それはかつて経験済みの叫び声で、中学時代に何度か体験したことのあるグループ・サウンズ公演の際の女性ファンたち同様でした。
しかも彼らの銀幕登場と同時に彼女たちのカメラから無数の目映いフラッシュ光が点滅、その度に白くなる銀幕に場内騒然となりました。
「キャー!キャー!」「カメラは止めろ!」「キャー!キャー!」「見えないだろ!」「フレディー!」「うるさい!聞こえない!」
そんな彼女たち、音楽雑誌の写真で彼らのファンとなり、勝手連的なファンクラブ(組合)を造り、口コミ情報を共有していたのでしょう。
そんな熱狂ぶりの彼女たち、クイーンの出番が終わるや、まだ途中だと言うのにゾロゾロ・ガヤガヤ・そそくさと会場を後にしたのです。
お騒がせな彼女らが去った会場には結構な空席が目立ち、その後の折角のお宝フィルム紹介の後半も何故か色褪せてしまったものでした。
(「フン!フラッシュ浴びせた写真なんか、白い銀幕だけで他に何にも写ってませんよーだ!」筆者らの嫉妬と義憤の心の声でした。)
( 御用済みとは言え、そんな彼女たち、エチケットや他人軽視の立派なマナー違反です。)

映画のようなフィルム・コンサートをまるで生のライブ会場化させた新人無名バンド、それがクイーン、彼らだったのです。
来日時のビートルズに始まり、モンキーズやベイシティー・ローラーズと、ルックス重視女子たちの系譜そのものでした。
クイーンもその出自から、Tレックスやデヴィッド・ボウィーらに繋がるグラマラス・ロックの系譜でビジュアル系でした。
彼女らにとっての「クイーン」は、正に少女時代から育まれたマンガの主人公の「プリンスたち」そのものだったのです。
そんな訳で、筆者思いもかけずに我が国でこそ最初の人気に火が点いたと言う彼らの実力を目の当たりにしたのでした。

今 思い返せば、
筆者のロック嗜好・志向の転換点を象徴するような出来事で、筆者はその後ブルースやジャズにのめり込むようになりました。
そう言えば司会の男性、今までベルボトム・ジーンズだったのに、その時は流行り始めたディスコ風バギー・パンツ姿でした。
歌と同様「人は世に連れ、世は人に連れ」です。1974年、時代も音楽も20歳を迎える筆者も正に分岐点だったような気がします。

世界に先駆けてクイーンを見い出した先見性高き彼女たち、翌年の彼らの初来日時に大挙して羽田へお迎え、彼らを驚愕させたものです。
ケータイ等の利器もなく情報も乏しき当時にファンとなった彼女たちの積極性と、クイーンの面々のカリスマ性には正直驚いたものです。
ロックが芸能界化しつつ、かつて在った力が消えつつあった時代の申し子として、彼らはスターの階段を着実に登りつめていきました。
「恐るべしクイーン!」「恐るべし日本女子(大和撫子)群団!」

今は昔の、半世紀ほども前のチョー・ローカル的な話しです。
最後までお付き合いくださった方々、ありがとうございました。

By T講師
( またまたの乱文、失礼しました。これはこれで当ブログの定番になったりして・・・)