アトリエ・マイルストンブログ

2016年7月20日水曜日

明治の洋画ー13、高橋由一

水曜日・薄曇り
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「名作美術館(その180):明治の洋画-13:江戸の先駆者・高橋由一」

画家の名は明治時代の我が国の洋画の歴史を記述する際には、必ず出てくる人物です。
でもよく考えてみるとそれは都合上の話で、実は江戸の絵師だったとの解釈も出来るのです。
実際、画家は佐野藩士の子として生まれ、狩野派の絵師に学び、20歳には神社・天井画「墨龍図」を描く。
こうしてみると、立派な江戸の絵師です。

画家はある日、西洋の石版画(リトグラフ)と出会い、その立体的写実性に驚愕。以後、洋画の習得を決意。
慶応2年、横浜在住の英国人ワーグマンに西洋画を学び、翌年にはパリ万博にも作品を出品したとのこと。
画家(絵師)が生きて・歩いて・見て・住んだのは立派なチョンマゲ・着物・草履の江戸の町だったと思います。
照明など、電気があるわけもなく、もちろん行燈(あんどん)や和ロウソクなどの時代です。
その後、時代は大きな変化を遂げ、明治維新を経て「文明開化」、西洋化の大波に突入。
そんな中、画家は画塾を創設し洋画を更に研鑽。イタリア人画家フォンタネージにも師事。
画家は日本画絵師から我が国第1号の洋画家へと、人生のハンドルを切り、前進しました。

洋画(油絵)の写実的特性に魅了された画家、その技術のもたらす魅力に没頭していたことと思います。
万物の事象に迫れることの出来る自らの錬金術師的能力に、喜びを感じていたのではないでしょうか。
以下はそんな画家の代表作の一部で、洋画の写実的特性を駆使して、様々な画題に挑戦しています。

「鮭」明治10年         「花魁」明治5年

「豆腐」1876年



「長良川鵜飼図」1891年

「浅草遠望」

「酢川にかかる常盤橋」1881年



高橋由一、文政11年(1828年)生~明治27年(1894年)没

御覧の通り、画家は多岐に渡る対象物を描き、元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いているとのこと。

画家は江戸時代に洋画に身を捧げた先駆者にも関わらず、当コーナーでは後回しとなってしまいました。
恥ずかしながらその理由は、そのねっとりとした泥臭い暗めの作風が筆者の好みではなかったからです。
しかし洋行等もせず、画集や画材等も入手困難な江戸末期に於いて燃やした画家の情熱には脱帽です。
しかし研究者などが度々云々する画家の遠近法の稚拙さなどの指摘は、筆者は当たらないと思います。
その論法で言えば、ダ・ビンチの「受胎告知」もアングルの「オダリスク」等もまた稚拙な作品となります。
チョンマゲ文化の江戸末期に於いて、これだけの力量を習得していたこと自体が驚異的な事に思います。

写真術すら稀有な時代、その写実的現実世界の再現は、まるで魔法のようではなかったかと推測します。
絵師と画家の両者を経験、生きた高橋由一の錬金術師的・悦楽人生に敬服です。

(「明治の洋画」、次回は最終回・総集編を予定しています。)

* * *

「ミュージック・ギャラリー(その214):夏唄始め」

「明日より夏休み!」と言うことで、当コーナーの夏唄が始まりました。
その初陣を飾るのは、懐かしの70年代・国産フォークの名曲です。

吉田拓郎、「夏休み」(1971年)

この曲が流行ったのは筆者の高校時代、筆者の周囲では英米のロックが大いに盛り上がっていた頃でした。
台頭し始めたシンガー・ソングライターたちの紡ぎ出す日本語の歌詞世界に共感を覚え、口ずさみました。
「人間なんて」「イメージの世界」「今日まで、そして明日から」等、日本語唄・初めての生の声のようでした。
サウンド一辺倒だった筆者の音楽世界に、言の葉の持つ力強さを教わり、加えられた時代でもありました。
吉田拓郎以外にも、岡林信康、高田渡、加川良、五つの赤い風船など、その詞の世界に魅了されました。
また素直な伝統的日本情緒の肯定的発露と、生ギター1本で気軽に口ずさむと言う習慣も身に付きました。
そんなきっかけもあって、日本文学(詩など)にも開眼。
井伏鱒二や室生犀星、中原中也、金子みすず、金子光春、郷土の詩人・山之口獏などの世界も知りました。

10代後半、過去を葬り去り、子供時代の夏休み情緒など消し去ろうとしていた筆者に光明が差しました。
「平凡な日常も良いもんなんだ。それらも立派な抒情なんだ。」と・・・。

その「夏休み」、今の子らはゲーム機に頭(こうべ)垂れるを大喜び・・・。
非現実に逃走・没入・没頭する今時現実・・・。
「麦わら帽子もかぶろうよ。泥遊びもやろうよ。」

By 講師T