体育の日・月曜日・晴れ のち 曇り
今年は残暑と秋雨日が異様に長く、爽やかな秋訪れが遅れていました。
が、どうにか朝夕を中心に気温も下がり、秋の気配も濃くなってきました。
このコーナーでも幾度か取り上げている薄、遅ればせながらの登場です。
が、どうにか朝夕を中心に気温も下がり、秋の気配も濃くなってきました。
このコーナーでも幾度か取り上げている薄、遅ればせながらの登場です。
菱田春草、「武蔵野」(1899年)、富山近代美術館
春草は明治を代表する画家で、横山大観、下村観山らと共に岡倉天心・門下で学び、日本美術院を創設。
朦朧体(もうろうたい)と俗に称される輪郭線の無い没骨法(もっこつほう)を用いて作品を製作するも夭折。
享年36歳。
上作品、「秋色暮色」とでも呼べそうな、黄昏色に染まる武蔵野平野の光景が低い視線で描かれています。
遠景には富士山のシルエットも見え、画面左(南)側が大山・丹沢山系、右側が秩父山地かと思われます。
地理的方角は無意味だとしても、おそらく画面奥が西方で、薄のたなびき方で北風が吹いているようです。
明るくなっている画面中央部の空には、没し行く西日の残照が感じられる寂寥感漂う秋の日の光景です。
そんな北風に背を向ける富士の嶺の手前の一羽の雀が目に留まり、見る者の心の投影に染まるのです。
一羽の雀、それは作者の春草本人の姿なのか、それとも画面に対峙する見る者のあなた自身なのか?
文字通りの美しい風の風景・光景絵です。
*
筆者も若かりし頃、かの地で暮らしました。ケヤキやイチョウの大木が残る武蔵野の自然が魅力的でした。
まだ当地に住む友人達や、お世話になったアパートの大家さんに会いに行かねばと思う今日この頃です。
* * *
「デイリー・ギャラリー(その41)・薄鑑賞」
「中秋の名月」のお月見には既に遅すぎますが、アトリエ近所の野原で薄の穂を採ってきました。
一緒に採ってくれた小6女子Hちゃんと共にガラス瓶に活けて、アトリエで観賞を楽しんでいます。
その美しい繊細な白金色・薄香色・時に光によって白銀色、その微妙な色や形や質感を楽しんでいます。
今年は残念ながら観察不足・研究不足ですが、来年の秋には是非とも描いてみたいモチーフの一つです。
* * *
「ミュージック・ギャラリー(その232):秋歌始め」
ここ2~3日、やっと秋めいてきました。
そこで遅れていた「秋歌始め」の初回をお届けしますが、歌なしのインストルメンタル(器楽曲)です。
でも筆者にとっては人の声も楽器の音も同等で、言葉の意味や内容など、時に副次的ですらあります。
歌手はその喉と身体で演奏し、楽器奏者はその技と相性とで歌うのです。
で、今回は当コーナーでも度々登場するピアニストのお出ましです。
上作品の秋の「武蔵野」光景のBGMにも合っているように思います。
キース・ジャレット、「クリエイション」(ライブ曲・編集メドレー)
Keith Jarrett, Creation, Medley
世界各地でのコンサートからの抜粋で、パリやローマでの2曲の他の3曲は東京公演からです。
曲間の繋がりなど違和感なく聞けて、良い雰囲気です。
筆者も若かりし頃、ちょうど武蔵野に住んでいた頃に、名盤「ケルン・コンサート」のLPを愛聴していました。
ビートルズの同じく名盤「ホワイト・アルバム」に共通する光沢白色のアルバム・ジャケットが魅力的でした。
今も大切に保管していて、たまに手に耳にすると、当時の思い出が走馬灯のように一瞬にして蘇ってきます。
南島・オキナワ、東京(中野区)、武蔵野(国分寺)、そして相模野の地(中央林間)と、転々と安住地探し。
そして今 同じく相模野の山と川と緑の地・厚木を永住の地と定めました。
「光陰 矢の如し」とは先人たちの究極名言。
多き出会いの後、逝く者・去る者もまた多し。
我にもまた春夏足早に過ぎて、秋冬終近し。
目前に得た幸福と刹那を心して楽しむべし。
( これもまた秋到来の成せる業か・・・。)
By 講師T
多き出会いの後、逝く者・去る者もまた多し。
我にもまた春夏足早に過ぎて、秋冬終近し。
目前に得た幸福と刹那を心して楽しむべし。
( これもまた秋到来の成せる業か・・・。)
By 講師T